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戦場に散った乙女たち 1

戦場に散った乙女たち



激戦地に向かう日赤の従軍看護婦たち。



戦争目的のない戦争について


軍事・軍政評論家 (米国イオンド大学教授 哲学博士)



●戦争を知らない昭和陸海軍の軍人達

 戦争を知らないのは、何も戦後生まれの「団塊の世代」(ベビー・ブーマー(baby boomer)ともいわれ、終戦直後から、昭和22年から24年生まれをいう)ばかりではなかった。この世代は、別名「戦争を知らない子供たち」ともいわれた。
 しかし、また昭和の陸海軍の軍人達
(陸海軍の大学校出身の軍隊官僚)も、「戦争を知らない軍人達」であった。

 彼等は敗戦責任をとることもなく、敗戦後もおめおめと生き残り、戦時には天皇の命令で若者を死地に追いやり、戦後は天皇の命令で生き残り、その生き残らなければならない理由を、戦後日本の復興支援にあたったと嘯
(うそぶ)いた。そしてその軍隊官僚の多くは、日本政府からの高額な軍人恩給で安穏たる余生を過ごした。

 太平洋戦争当時、軍人達がしでかした戦争に、果たして戦争目的はあったのか。否、彼等は戦時において、一貫して戦争目的を持たない軍人達でもあった。ここに軍隊官僚の無能と無策があった。そして負け戦は、昭和18年から克明になって行く。この年を境に、日本は敗戦の色を濃くする。

 昭和18年元旦の朝は、何処までも晴れ渡っていた。明治神宮や靖国神社には、朝から大勢の人が参拝に詰めかけ賑あっていた。参道の両脇には出店が並び、幼子は母親から手を引かれたり、祖父や父親の肩車で雑踏を進んでいた。雑踏の至る所から甲高
(かんだか)い笑いや喚声、あるいは怒声ともつかぬ声が、押し合いへし合いの雑多の中から湧き起こっていた。

 皇居の二重橋前に広場には、年賀の式典のために大勢の市民が詰めかけ、あちらこちらから、「万歳、万歳」の声が上がっていた。
 この日の朝日新聞の朝刊には、『戦時宰相論』という他社とは異なる論評が掲載されていた。その論者は中野正剛
(なかの‐せいごう)であった。代議士だった彼は、福岡県出身で、また玄洋社社員で、鰌猷館(しゅうゆうかん)から早稲田大学に進み、卒業後朝日新聞に入社した。後にヨーロッパ特派員になり、その後代議士になって政界入りした。中野は名演説家としても知られ、自らが主催する「東方会(とうほうかい)」の総裁でもあった。

 『戦時宰相論』には、西郷南洲
(隆盛)の言葉や、レーニンの言葉が引き合いに出され、更には三国志でお馴染みの蜀の国の宰相・諸葛亮孔明(しょかつ‐りょう‐こうめい)の言葉、はたまた南宋の忠臣武将の岳飛(がくひ)らの例を持ち出し、日露戦争当時の総理大臣であった桂太郎(かつら‐たろう)を褒(ほ)め賛えた。

 この論評の結論として、「難局に接している日本の宰相は、絶対に強靭でなければならない。強靭こそ、名宰相の絶対条件である。強靭
(ぎょうじん)たる宰相の条件は、気宇壮大きう‐そうだい/政治的ビジョンや方針、大局観を超越した戦略の提示)でなけれなばらない」と締めくくったのである。つまり中野が声を大にして云いたかったことは、今日の難局を乗りきるためには、東条首相では務まらないと云うことだった。

 しかし、この『戦時宰相論』には、東条のことを露骨に表現していなかったし、東条の名前すら出てこなかった。見方によっては、激励文のようにもとれた。だが、日米開戦に踏み切り、開戦当初のような快進撃は望めなくなっていた昨今、誰の目から見ても、東条が、西郷南洲やレーニン、諸葛亮孔明や岳飛のような英雄と比肩し難いことは明らかだった。

 更に『戦時宰相論』の解釈を押し進めると、「総理大臣のしての役職に就く人は、日露戦争当時の総理大臣であった桂太郎のように平凡な人物で結構であるが、平凡であり、小心者であった桂太郎は、自分の身の程を知っており、平凡な小心者が少しも英雄ぶっていなかった」という解釈を付け加えたことであった。

 この頃になると、これまでの連勝連敗から一転しての負け戦の連続で、下り坂にさしかかった東条は、首相の座を降りて引退するべきだと云うことを主張したと思えるものだった。
 自分の周囲の評判を常に気にしていた東条は、これに敏感に反応した。

 東条は日米開戦に踏み切った当時の宰相であり、戦後は悪玉の首領のごとき評価をされたが、軍隊官僚の一員としては優れており、天皇に対する忠誠心は人一倍であった。几帳面な性格と事務的能力の優は天皇からも信頼があった。しかし大政治家ではなかった。中野はそれが云いたかったのである。

 統制派集団に属した東条は、相沢中佐事件当時、軍務局長であった永田鉄山
(ながた‐てつざん)少将の次官を勤めていた。永田少将が陸軍省で刺殺されると、それに変わって東条が軍務局長になった。その時、東条が頭角を現わした分野は、事務的能力の面だけであった。しかし雄弁と独自の立ち回りで、軍閥(ぐんばつ)の頂点に躍(おど)り出て、首相にまで登り詰めていったのである。また、東条のような小心者を宰相にまで登り詰めらせた、軍部や政界の責任は大きかった。

 東条の頭の中には、かってルーズベルトが日本を過小評価したように、東条もまたアメリカを過小評価して、和平締結に手をかそうとはしなかった。そのため日本は知らず知らずのうちに、虎口へと近寄って行ったのである。しかし陸軍の常識派は、これを黙認していなかった。

 一年前、東条の下で働いていた陸軍省軍務局長であった武藤章
(むとう‐あきら)少将は、東郷茂徳(とうごう‐しげのり)外務大臣に、日本の即時戦争終結の依頼をしていたし、岡田啓介(おかだ‐けいすけ)元首相にも同じように戦争終結の道を探らせていた。しかし武藤らの戦争終結の和平締結の努力も空しく、海軍はミッドウェーやソロモン群島で敗北し、反東条の世論ムードは高まってきていた。武藤がこのような行動に出たのも、反東条の中から思って世論感情からであった。

 それを知った東条は一層厳しい検閲に乗り出し、国内の一致団結を強化した。憲兵を徹底的に駆使し、憲兵政治を始めたのもこの頃からであった。そんな中に、中野が『戦時宰相論』の論評を掲載したのだった。
 東条は激怒した。早速憲兵隊に命令して、「中野を監視しろ!」と厳命したのである。これが東条の実行した憲兵政治であった。

 東条は戦時の宰相としては、大いに問題があった。更に、東条には戦争目的に関するビジョンがなく、首相として、あるいは陸軍参謀総長としての仕事ぶりは、単に事務屋のそれであった。
 そして、この時から日本は、益々負け戦の深みに嵌
(はま)って行くのである。

 昭和18年以降、日本は負け戦に転じて行く。その負け戦を上塗りするような風潮が、生活必需品や日々の食生活の中にも顕われた。



●勇戦

 太平洋戦争下、日本軍は至る所で負け戦を展開していた。
 しかしこうした最中、連合軍を驚嘆させたのは、中国とビルマ・ルートが交叉
(こうさ)する地点で敢闘した、拉孟(らもう)・騰越(とうえつ)の日本軍守備隊の活躍がある。
 蒋介石
(しょう‐かいせき)麾下(きか)の最精鋭機甲師団がビルマに向かって南下した時、その途中には、日本軍守備隊が守る拉孟と騰越と言う陣地があった。

 ここを守備していた拉孟守備隊長・金光直次郎
(かねみつ‐なおじろう)少佐であった。
 守備隊の多くの将兵は傷付き、本来ならば野戦病院にいる筈
(はず)の片手、片脚、片目の兵士も第一線の陣地に立て籠(こも)り、激しく戦った。また、従軍看護婦や慰安婦達もここに立て籠り、最後まで抵抗を続けた。彼女達も小銃を手に戦ったのである。
 負傷した兵隊や、女性達の闘魂を支えたのは、金光少佐個人に対する、人間的な深い尊敬と信頼への傾倒であったからである。

 人間は、死するべき人間の為に命を捧げると言う。これは歴史を見ても明らかである。
 この典型的なものが、「アラモの砦」だっとのではなかろうか。
 アラモの砦は、アメリカのテキサス州サン・アントニオ市にある、もと僧院跡である。1836年、テキサス独立戦争中、クロケット
David Crockett/1786〜1836)ら、約200人は独立軍としてメキシコ軍と激しい戦いを演じ、最後は此処に立て籠って全滅する。

 アラモの砦で独立軍を指揮したのは、アメリカの西部開拓史上の英雄のデーヴィー・クロケットであった。クロケットはメキシコからの独立を図るテキサスを支援して、アラモの砦で壮絶な戦死するのである。

 拉孟
(らもう)・騰越(とうえつ)の日本陸軍守備隊でも、アラモの砦と同じような事が起り始めていた。人間がこうした行動に至るのは、人間自身が命以上に大切なものがあると知覚した時の信念であろう。信念は時として、人間を高潔にするものなのである。

 金光守備隊は、やがて弾薬が尽き、兵は殆どが負傷者ばかりとなる。金光少佐は最後の総攻撃を決行する。そして金光少佐は、日本人従軍看護婦や朝鮮人慰安婦を集め、「中国軍は、君らを捕虜として扱うが、決して殺したりはしないだろう」と、最後の言葉を述べ、護衛兵をつけて、彼女らを陣地の外へ脱出させる。

 しかし日本人た朝鮮人女性達は戻って来て、「敵の捕虜となって辱
(はずかし)めを受けるくらいなら、隊長と一緒に死にます」と言っていかない。金光少佐は再度説得したが、彼女達は脱出を拒んだ。かくして拉孟守備隊は、ここで玉砕(ぎょくさい)する事になる。女性達も、戦士として金光少佐と運命を共にしたのである。

 戦争において、何処の国の軍隊でも同じであろうが、勝った側は、負けた側の国の婦女子を強姦すると言うのが通り相場的な行動となっている。戦場での兵士の心理は、極度に緊張する為に、その反動として性欲が高まり、勝てば、負けた側の婦女子の強姦すると言うのは通り相場だ。
 そして、残念ながら、戦争犯罪と無縁だったと言う軍隊は、歴史上、ただ一つの例外すらないのである。したがって婦女子は、男の暴力に屈する悲しい現実がある。
 こうした事から、守備隊所屬の彼女達は、最後まで抵抗し、共に死ぬ道を選んだのかも知れない。

 騰越守備隊は最後まで抵抗を続けた、陣地に立て籠
(こも)って壮絶な死闘を繰り広げる。不完全な陣地ながらも、二十倍以上の敵を相手にして戦い、抗戦60日余りを守備し、最後の指揮官・太田大尉を先頭に突撃を行ない全員玉砕した。
 果たしてこの戦場を戦った兵士や、それの随行した女性達は、その最期が清らかであったか否かは、偏
(ひとえ)に勇気と信念にかかる筈であろう。任務を遂行したのであれば、魂は穢(けが)れのないまま、その清らかさが保たれた事になる。

 この戦闘の後、蒋介石は、「最近の我が軍へ勇戦は、まことに喜ばしいものであるが、なお、足らざる兵がすくなくない。日本軍の拉孟と騰越の守備隊の守備隊ごときは、まことに敬意を表すべきものであり、斃
(たお)れてもやまない勇戦敢闘は、我が軍も大いに模範とすべきである」という、日本軍玉砕に対する最高の追悼(ついとう)を下している。しかし失われた命は、再び蘇(よみがえ)ることはなかった。



●顕微鏡下の微生物と言う弱者

 繰り返すまでもなく、戦争がどんなに愚かであるか論ずるまでもない。しかし戦争を避ける事が出来ないのも、また事実である。
 戦争そのものを正義であるか否かは別にして、戦争によって失われる命の犧牲は膨大なものであり、戦場における一兵卒や戦火を逃げ回る一般人の命など、虫螻
(むしけら)同然となる。そして一人の兵卒や一民間人の活躍など、歴史の記録に残らぬ程、哀れで、無慙(むざん)に消滅していく。

 先の大戦において、こうした醜態を曝した、「頭でっかち」は少なくなかった。
 例えば、辻政信のような、陸軍士官学校、陸軍大学校などのトップに位置し、恩賜
(おんし)で卒業したエリート中のエリートでも、重大な局面に遭遇した場合、卑劣で卑怯な振る舞いをしたことは否めなかった。
 戦後の経済界の一部では、辻政信
(つじ‐まさのぶ)を絶賛し、当時の参謀として称賛する神話的な崇拝があるが、辻が単に知識だけで軍閥の頂点に立って居た事は疑いようもない。それも恩賜という理由だけである。

 辻政信の、神話を打ち消す話は五万とある。その中でも有名なのが、辻が右翼系の壮士だった笹川良一
(ささがわ‐りょういち)との自慢話で、辻がやり込められた話がある。
 陸士・陸大とエリートコースを歩いた陸軍高級官僚の中には、「愚図愚図いうと、ぶった斬るぞ!」という傲慢
(ごうまん)が罷(まか)り通っていた。これは当時の陸軍の体質を示すものであったが、この体質に陸軍エリート達も悪乗りしていた。こうした悪乗りエピソードは至る所で転がっている。

 当時、支那派遣軍参謀だった辻政信中佐は、傲慢に悪乗りした観があった。こうした悪乗りは文人からすれば鼻持ちならないものである。ついに辻の悪乗りに業
(ごう)を煮やした文人が、「陸軍の中佐だか、大佐だかは知らないが、何を無礼な事を言うか」と怒鳴り返した。この文人は、後の東条英機内閣の大東亜省(太平洋戦争下の1942年11月、東条内閣が設置した大東亜共栄圏地域の政務を扱う中央行政機関で、敗戦後45年8月廃止)の大東亜大臣になる青木一男であるが、辻は青木を捕まえて、「ぶった斬るぞ!」と、腰の軍刀に手をかけ、白刃の抜き身を見せると、青木は青くなって一目散に逃げたそうである。

 辻は、青木のこうした無態
(ぶさま)を見て、「青木と言う男は、何と弱い奴だ」と侮蔑し、それを各界人に触れて回ったが、それを訊(き)いた笹川良一は、「で、その時、青木はどんな武器を持っていたんや?」と訊き返した。
 辻が「何にも持っていなかったという」と、笹川は「何にも持たない丸腰の人間なら、軍刀で脅されたら、そらァ、青くなって逃げ出すのが当たり前や。そらァ、あんたの方がよっぽど弱虫やで」とやり返したそうである。

 大戦当時、陸軍省の軍隊官僚の高級軍人が、こうしたエリート意識を鼻にかけ、「四の五の言うと、ぶった斬るぞ!」と脅した話は有名である。これこそ、「虎の威を借る狐」の正体だったのである。ここに当時の陸海軍の、ゲシュタ
Gestapo/Geheime Staatspolizeiの略で、反ナチス運動の取締りを目的としたナチス・ドイツの秘密国家警察)並みの傲慢があった事は否めない。権力が、かくも、こう人を傲慢にさせることの魔性は、覚えておくべきである。これと同じ魔性に魅入られ、魔性に命ずる儘(まま)に傲慢に振る舞っているのが、昨今の政治家である。政治家の傲慢(ごうまん)な態度は、大戦当時の辻政信にも劣らぬところがある。こう言う意味から、時代は違うが、一蓮托生と言うべきであろう。


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