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統覚法とその修法 1

統覚法とその修法







智恩院経蔵


●観想

 潜在意識をコントロールするには、意識の集中努力ではなく、暗示力を強化しなければならない。この暗示力を高める修法が、「観想」といわれるものだ。
 観想は潜在意識に呼びかける「想像力」のことで、これには二つの関係がある。それを要約すると、次のようになる。

意志と想像力が反目し、かつ対峙する場合は、この場合において優位を占めるのは、想像力であり、自己暗示の力を強化すれば、最終的には「想像力」が勝つ。即ち、この場合の想像力は「潜在意識」のことである。
意志と想像力が、合い競い、争う場合、想像力は意志力の二乗に正比例する。つまり、想像力が勝つのである。この場合の想像力は「潜在意識」のことである。

 意志による努力は、暗示力による想像力よりも劣るものである。
 つまり意志とは、顕在
(けんざい)意識からなる“有意識”であり、それは想念からではなく、肉から生まれたものである。肉体を司る、五官の感覚器から生まれたものである。五官は眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)をいう。仏教にいう“五根”から出たものだ。そしてこれらは、意志を司り、五根を構築する。これが顕在意識である。

 一方、想像力は想念から起こる力であり、これは潜在意識から誘発される“無意識”である。そして有意識と無意識が競い、戦った場合、無意識に軍配が上がるのである。
 つまり、努力は逆転すると言うことになる。

 意志の努力は、努力すれば努力するだけ、逆効果が生まれると言うことだ。
 人間界では、様々な意志が飛び交い、その意志が至る所で充満しているのである。その充満した意識の多くは、例えば、“大人の世界”を挙げるなら、今日から酒をやめるとか、今からタバコをやめるとか、博奕
(ばくち)をやめる、無駄を省くなどの、“やめる”ことに躍起(やっき)になるが、この“躍起になって、何かを決め”それを実行するところに、意志が働くのであるが、根を詰めた意志は、脆(もろ)くも崩れ易い。安易に不言実行とは行かないものだ。それは、そこに肉体が関与するからである。肉体は、意志によってコントロールされるが、意志通りに動くことは稀(まれ)である。

 意志は肉体をコンロロールするが、肉体はその指令に基づいて、必ずしも意志通りに働かない。
 また肉体が関与した意志は、脆さを抱えている。それは「意志による努力」であるからだ。
 この努力こそ、「徒労」と言うものであり、意志によって決めたものは、失敗する“喩
(たと)え”である。そしてこうした意志は、たいていの場合、逆転して、脆くも崩れ去る法則に支配されている。意を用いて、それを行動に移す場合、その意志は顕在意識の働きによる。

 本来、必要なのは、意志による努力ではない。また肉体力を駆使した、“我武者羅
(がむしゃら)な頑張り”でもない。こうした意志での努力は崩壊し易い。
 したがって必要になるのが、悪想念を駆逐し、それに代わって想像力を豊かにさせる潜在意識を旺盛にさせることである。その為に悪想念を閉め出し、善想念を呼び込まなければならない。

 善想念は自己暗示による想像力であり、これを「観想」という。観想の力を養成することによって、善想念である潜在意識をコントロールする修法が可能になるのである。

 観想を得て、それを安定させる為には、まず、善想念を潜在意識に例えるならば、それは奔馬
(ほんば)であり、勢いよく走る馬のことである。そして勢いがあるだけに、そのコントロールが難しい。奔馬は、乗り手との折り合いが悪いと、馬の方が勝ってしまう。したがって、これを制禦(せいぎょ)する技術が必要となる。

 この技術の習得こそ、観想による修法であり、この修法をマスターすれば、奔馬をコントロールすることができる。
 則ち、制御するのは意志でなく、想像力を派生させる潜在意識なのだ。潜在意識は意志から生まれるのもでなく、これを意志によって制禦することは出来ない。

 まず、制禦の第一段階は、潜在意識を解放することにある。意志で押さえつけてはならない。自由に解き放つことである。潜在意識は自由に解放されれば、その暗示力が高まる。これには露頭させることが大事である。露頭すれば、そこに働きかけるものは、まさしく自己暗示だけとなる。自分に暗示を懸
(か)け、それを《善想念》として自身の心に還元させることである。



●観るということ

 宇宙と一体化を図り、それと一つになろうとする修法を「観」という。つまり、宇宙と人間が一体化していることを観じるのである。
 私たち人間の裡側には、全身で神仏を感じる超越的な力が存在している。そして宇宙と交流することによって、宇宙の存在を把握し、それを観じ、一体化しようとするのである。また宇宙と人間は、繋
(つな)がっているもとの考えるのである。

 この「観」を克明に顕した考え方が、密教の考え方であり、自己の存在意義を宇宙に求めるのである。この考え方からすると、人間は小宇宙であり、宇宙は大宇宙となる。両者は相似形であり、酷似する点において、その一体化は更に密接なものとなる。
 これは密接な関係を持っているのであるから、結局は同質のものとなる。

 同質の意識によれば、自分が則
(すなわ)ち宇宙であって、また、宇宙が自分であると言うことになる。この関係を密接にさせることこそ、宇宙との一体化はより近付き、密教の教えに従えば、空海の説く、真言密教の教主(きょうしゅ)は大日如来(たいにち‐にょらい)であり、この如来を「仏」という。

 大日如来
【註】Mahavairocana  摩訶毘盧遮那)は、宇宙と一体と考えられる汎神論的な密教の教主である。また『大日経』と『金剛頂経』の中心尊格である。その光明が、遍(あまね)く照らすところから、《遍照》または《大日》という。大日経系の胎蔵界【註】大日如来を慈悲または理(真理)の方面から説いた部門のことで、胎蔵は母胎の意で、一切を含有することに喩(たと)える)と金剛頂経系の金剛界【註】大日如来を智慧の方面から明らかにした部門のことで、大日如来の悟りの智慧は堅固で、一切の煩悩を破る殻(から)いう)との、二種の像によって特異な宇宙を形成している。
 そして密教では、大日如来を《法身
(ほっしん)》と呼び、法身の“法”とは、「宇宙の真理」を指している。

 一方、法身の“身”とは、大日如来は「宇宙の真理そのものが、肉体である仏」を顕している。要約すれば、大日如来は《宇宙の生命》そのものということになる。
 これについて空海は、密教の教えである「秘密」を二つの教えで説き、その一つが「衆生秘密
(しゅうじょう‐ひみつ)」であり、もう一つが「如来秘密」を説いている。

 衆生とは、私たち人間一人一人が、個々の人間の心の中に「仏の悟り」を秘めて居ると言うことである。この悟りが、宇宙の真理であり、この真理は、個々人の中に存在していると言うのである。
 しかし、個々人の中にその悟りが存在しながらも、目が開かれない為に、その悟りを知ることが出来ず、心の裡に存在する悟りは、曇らされてるというのである。

 これでは宇宙の真理を観じることは出来ず、目も曇らされている為に、霊的神性は自らの、物質の固執する殻で覆い隠されていると言うのだ。それがまた、衆生秘密ということである。

 更に大日如来は、宇宙の真理そのものであり、宇宙生命そのものを具現化したものであるが、その深淵
(しんえん)なる教えは、俗人には計り知れないと言うのである。その為に、これを「如来秘密」というのである。
 しかし、一方において厳しい修行を積み、種々の修法を学べば、俗人の心にも秘められた宇宙の真理を通して、衆生秘密を開くことが出来ると教えている。
 つまり、これが「観」である。

 心眼を見開いてこそ、宇宙の真理は悟ることが出来、大日如来である宇宙生命にも迫れると言うものである。更に如来秘密を開いて、宇宙との一体化を図り、これにより、真理と一体化するということが可能であると、空海は教えているのである。そしてこれこそが、空海の説く「即身成仏
(そくしん‐じょうぶつ)」なのである。つまり、人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き仏になることをいうのである。

 しかし、俗人の心は、多くの場合、「我
(が)」に凝り固まっている。物質優先の世界で、唯物論が横行するこの世界では、「我」の突出が著しい。これは人間の本質が、自分に固執している為である。そこにまた、悩みや苦しみや迷いが生じるのである。そしてついには、自分自身も見失ってしまうのである。此処に「煩悩(ぼんのう)」に曇らされる現実がある。

 ところが自身の煩悩は、また「菩薩
(ぼさつ)の悟りの境地」をも顕している。これが「煩悩」即「菩薩」である。そして密教の教えは、この境地を一歩前進させて、自己の裡側に備わる仏と、宇宙の本質は同根であり、「本不生(ほん‐ぶしょう)」が同じものであると考える。つまり、「不生不滅(ふしょう‐ふめつ)」を意味するのだ。
 生じもせず、滅しもせず常住であることであり、則ち、真如実相の存在ならびに涅槃
(ねはん)の境界をいうのである。これが「我即法界(がそく‐ほうかい)」である。

 「観」は、大日如来の光を観じ、また宇宙初源
(しょげん)の光を観じることである。
 これは「果てることのない世界」と、自分が一体となり、“一つのもの”であるということを実感することである。また、そこに三昧
(ざんまい)の境地があり、あまねく世界を貫く仏の慈悲(じひ)と、その世界を動かす法を知るのである。
 その根本原理が、密教の阿字観であり、此処に「観る」という行為が存在するのである。



●想うということ

 人の「想い」の中に、目を閉じて静かに考え、そこに「耽る」という行為があり、また、現前の境界を忘れて想像をめぐらすことが、想いの中に巡らされている。それはまた、精神修行者の実践的修法であり、これを「瞑想(めいそう)」という。
 そして密教の修行実践において「阿字観
(あじ‐かん)」がある。

 阿字観は、密教でいう、万物の根源である阿字を観想する行法である。普通は、月輪
(がちりん)中の蓮華上に阿字を描いて眼前に掲げ、阿字と行者の心が一体となる瞑想法のことだ。

 阿字とは、その文字が示す通り、梵字の「阿字」を観想し、阿字の中に自己があり、自己の中に阿字があると観じて、瞑想することである。それにはまず、阿字観を開始する前に、阿字に関する智慧
(ちえ)を学ぶことが大事である。

 阿字とは、“アヌゥトゥーパーダ”のことで、《本不生
(ほん‐ぶしょう)》の意味を持つ文字が、則(すなわ)ち「阿字」なのである。本不生とは、本来的に「生まれていないもの」であり、また“生み出されたもの”でもない“生まれなきもの”のことである。
 これは他の何らかの他者によって、生まれ出された、あるいは作り出されたものでもなく、また、自己によっても、生まれ、あるいは作り出されたものでもないものを指す。これには時間も空間も存在せず、こうした時空を越えた存在であり、更には人知を越えた、「あるもの」なのである。この「あるもの」を梵字の“阿字”は顕すと言う。

 梵字の阿字は、仏の「本不生」の特質を顕し、此処にはあらゆる仏の本性を顕していると言う。この“顕す”ということが阿字と言う梵字なのだ。
 この特質を象徴する為のものが、阿字であり、この梵字は「種字」
【註】別種字とも)という、仏を顕すもので代行している。
 梵語の第一字母の「阿」は、万物の根源を意味し、万物が本来、不生不滅であるという真理を象徴するという。

 阿字観の本尊として使用される阿字は、これを「如何に捕らえるか」が問題とされるところである。
 密教では禅と同様、物事を《例え話》として表現する場合が多い。
 それは伝えようとする事物が、人知を超越している為である。したがって、言葉では正確に伝達することが不可能となり、この為に「例え話」が用いられる。

 それは喩
(たと)えば、生まれてこのかた、月を一度も見たことのない人に、宇宙に月が存在することを伝えようとしても、分からない為である。
 月を喩えて話すならば、その大きさも、そこに存在する距離も、明るさも、それはそのままの事実を伝えるのではなく、むしろ「月の特徴」を、何かに喩えて話すという方法が用いられるのである。それが例え話として「阿字」に象徴されているのである。
 したがって、月を知らない者に、月の話を何百回、何千回、何万回、話し、それを伝えようとしても無理であり、また、月を知らない者が、月の存在を理解できるわけがないのである。

 こうした言葉による伝達方法は、一見の伝える事実よりも、到底、及ばないのである。
 したがって、仏の存在の伝達も、仏の存在を話したところで無理であり、阿字を用いる修法は、仏を知らない者に、仏の側面を知らせる為に阿字が使われるのである。阿字の表現方法は、その字、そのものが持つ力で泣く、仏の側面を伝えていると言える。此処に阿字を用いる、阿字観の真髄
(しんずい)があるのである。

 阿字の持つ、字の本質は、あくまでも「本不生」である。本不生の意味こそ、最も大事であり、その代表的な意味が阿字の象徴として、仏を顕しているのである。したがって、阿字の文字だけに捕われることなく、仏を観じつつ、想念して、その先に悟りがあることを想い、修行三昧の境地に自身を持って行くのである。



●月輪観と阿字

 驚異的は法力は、密教の修法の賜物である。そして、そこには曼陀羅(まんだら)が描く、巨視的な宇宙と微視的な宇宙が共棲(きょうせい)している。
 まさに「太極」は大小がその霊験を司る、秘儀の世界に集約されているのである。
 また、密教のエッセンスは、日々実践の中にあり、それを直接体験するところにある。
 阿字観を“阿字”に意識を集中させる如く、三昧の境地に達する修法を学ぶのである。

 阿字観が阿字観たる所以
(ゆえん)は、阿字を本尊として、次の修法を行うのである。

月輪(がりちん)円の中に、阿字を観る。
月輪の中に蓮華(れんげ)、その上に阿字を観る。
蓮華の上に月輪、その中に阿字を観る。

 以上を阿字本尊として、心の底から尊べる阿字観の姿を構築するのである。則ち、これこそが心の拠(よ)り所となるのである。

 多くの現代人は、その日々を多忙と情報過多に振り回され、その日常生活は種々の情報によって管理されている。しかし、こうした情報と、管理されるシステムからの束縛が解かれない限り、大いなる精神を育み、自己に内在する能力を高める事は出来ない。
 まず、それには自然界の根源を可能力(デュナミス/dynamisとし、これを物質、運動、存在など一切の原理であると主張する立場を開拓しなければならない。つまり、アリストテレスの哲学における重要な概念で、「可能態」を「現実態」に具現することである。

 それは質料として誰にも内在しているものである。この内在するエネルギーを実感し、発展して形相を実現するのである。ここに修法や秘儀に込められたダイナミズム(dynamism)がある。つまり、「可能力」があるのである。その象徴するものが、密教に於ては曼陀羅
(まんだら)の修法などである。

 さて、密教には、瞑想学と称される、「阿字観(あじ‐かん)」がある。これは精神レベルを向上させる瞑想法であり、密教の基本的な実践技術である。そしてこの瞑想法は、自己催眠のような役割を果たす。あるいは「暗示」である。自己暗示を強くし、そこに阿字を観る。この暗示力が、強い想念となって潜在意識の働きかけるのである。

 ここでは基本的な瞑想法を紹介することにしよう。
 まず、月輪円
(がち‐りん‐えん)の中の阿字は、一般には阿字観として知られ、阿字観はその名前が示す通り、梵字(ぼんじ)の「阿字(あじ)」を観想し、阿字の中に我(われ)があり、我の中に阿字があるといった様々な観点から、阿字を中心にして瞑想を行う密教の修法である。これは宇宙の中に自己があり、自己の脳裡に宇宙が存在すると言う図式だ。

 また月輪とは、密教でいう、衆生に本来そなわっている清浄な悟りの心をいう。月輪観は、阿字観と共に、衆生の清浄な心の本質を象徴する月輪を観想することをいい、密教の最も基本的な行法の一つである。月輪の中に阿字を見るのである。

月輪観の図
阿字観の図

 「阿字」は本不生の意味をもつ古代インドの梵字(ぼんじ)であり、本不生はまだ「生まれてないもの」を指し、「生まれなきもの」を指す言葉で、他人が作り出したものでもなく、あるいは自分が作り出したものでもない時空的な存在を超越したものである。時空を越えたところに、真理と言うものが存在するからである。

 つまり時空を超越し、人知の及ばない、それを指すのである。
 また、阿字の持つ意味は、「阿」字は万物の根源であり、不生不滅の原理を象徴的に表現するとされる。したがって、万物の根源に帰着し、その行法が阿字観である。

 阿字観は、密教で、万物の根源である阿字を観想する行法であり、普通は、月輪中の蓮華上に阿字を描いて、眼前に掲げ、阿字と行者の心が一体となる瞑想法である。この「瞑想法」をもって、脳の持っている物理的な記憶ばかりでなく、感情や情動に働きかけ、あるいは直感力や思考力などにも、霊的な現象を起こし、脳の生理学では説明できない「もの」を具現させるのである。これがこの修法から得る効果である。そしてこの効果は、同時に深淵なるものに働きかけ、同時に長大なものを知覚する効果を持つ。この効果をもって、「観じる」というものへ作用させるのである。

 月輪観を例える場合、「月」を喩
(たと)えにとるが、仮に月を見た事のない者に、月の事を百万回説明したところで、それを理解させるのは容易ではない筈である。しかし一回月を見せれば、それで説明が足りる。このような密教の「観」は、体験して始めて理解できるものである。つまり、見るは「観る」に通じるのだ。

 本不生が意味する阿字こそ重要であり、その象徴的な梵字と共に修行する事が悟りである、三昧
(ざんまい)の境地へ誘うのである。
 この修法は先ず結跏趺坐
(けっかふざ)に坐り、阿字観のみに意識を集中する。だが初心者の場合、椅子に坐った儘(まま)でもよいし、あるいは座布団を二つ折ににして尻部の下に敷いてもよい。安定が保てる状態まで訓練したら、座布団を敷かずに結跏趺坐に坐り、阿字に意識を集中する。これを行う場合の照明は、出来るだけ電気などを使うのではなく、太陽光を利用して行う。

結跏趺坐

 呼吸は浅くなく、深くなく、早くなく、遅くなく、自然に近い状態で、意識を阿字に集中する。その意識で大事な事は、我が全身に宇宙の力を吸い込むような吸収力である。それを丹田の奥へ奥へと吸収するのだ。

 次に一旦休み、間をあけてから月輪観に入る。
 阿字観と違うのは月輪円の中に梵字の無いものを用意する。つまり黒地に白い円を描いたものを用いるのだ。

 月輪円を凝視する場合、月輪に心を定め、やがて半眼にして、強く凝視していないでも眼の前に月輪が見えるかのように意識の集中を図る。これが第一段階であり、次に「広観
(こうかん)」という第二段階に入る。

 広観は、目を閉じていても見えるかのように月輪を引き寄せ、自分の脳裡にそれをはっきりと意識する。充分に引き寄せる事が出来たら、次に月輪から白い、淡い、光を発光させる。これは出来るだけ柔らかな光でなければならない。その光は次第に円形から球形に移行し、立体味を帯びて、珠
(たま)となるようにイメージする。

 その珠は段々大きくなり、自分の等身大と同じ大きさになり、やがてそれを超えて家中を包み込むような大きさとなり、更に進んで町を包み、国を包み、地球を包み、最後には宇宙全体を包み込んでしまう程の珠となるのである。これが広観である。

 第三段階は「斂観
(れんかん)」である。
 さて、これを行うのであるが、続けざまに行うのではなく、一旦間を入れて休憩し、その後に行うのがよい。広観を行い、極限状態に間で拡大された月輪は、時間を置かないと不安定であり、この安定を得る為に、少しの時間を必要とするのである。

 斂観というのは広観の逆で、今度は出来るだけ小さく小さく絞り込み、中心の一点に月輪を絞り込んでいくのである。まるで顕微鏡の中の月輪が、更に小さく絞り込まれてミクロの世界に迄収縮されていくのである。
 この両方の広観と斂観を行う事で、月輪観は終了する。

 月輪観により阿字観の最初の段階である基本をマスターしたら、次は阿字を深く理解する為に阿字の本質に迫っていく。そして阿字と我が身を近づけるのである。
 自分自身が抱える煩悩
(ぼんのう)も、また菩薩の境地に他ならないと説く、密教独特の教えは、我と宇宙を結び付けるものであり、本不生が同じものであると説く思想に端(たん)を発している。これが「我即法界」である。

 我
(が)と謂(い)う垣根を取り払い、我と宇宙は一体であるとする実感にまで到ろうとする世界が阿字の世界である。そこに「我と言う宇宙」が存在するのである。

 阿字観は密教の修行の中でもその修行の中心を為し、「観る」「感じる」「知る」為の瞑想法であり、自らの意識の力によって虚空に阿字や月輪をイメージするのである。
 大東流の祖・西郷頼母が密教に目を付けたのは、密教の阿字や月輪を想像するイメージ力の超能力的な一面を大東流に応用したと謂えるのである。

 この修法の中には敏感な感覚を養う「勘」の養成にも繋
(つな)がるし、想像力を駆使してイメージから湧き起った言行を以て敵を封じ込める技法にも使えるからであった。この事が、言霊に敏感に反応する言霊宇宙の実体であった。
 そして阿字観によって開花するのが実用的な真言九字である。



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