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死の訪れ 1

死の訪れ





「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と詠んだ芭蕉の辞世の句は、その臨終においても、燃え尽きて完全燃焼した跡が窺(うかが)える。
 しかし、完全燃焼の死に態を迎える為には、人間の持つ貪
(どん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒から解放されなければならない。
 この解放なくして、静寂な安住はあり得ない。死こそ、静寂の地に安住する静かな行為なのである。


 人間の死は単なる動物の死であってはならない。
 人は、死ぬと言う行為を通じて、人生の「総決算」と云う晴れ舞台を見事に演じ切らなければならない。死ぬと言う行為は、「人間が生まれる」という誕生の出発を彷佛
(ほうふつ)とさせるくらいに、輝かしいものなのである。
 この晴れの舞台での総決算を演じてこそ、私たちの人生は終幕において一等明るい光を放つである。この晴れ舞台を立派に演じてこそ、死に行く者は「死へのドラマ」の主役を演ずることが出来るのである。

 ところが現代と言う社会状況下では、「死のドラマ」は誰が仕切っているのだろうか。
 死のドラマはいつの頃からか、主役の座は医者に奪われてしまったではないか。
 現代人は、病院で生まれ、病院で死んで行くと云う、これまでの過去になかった生死が繰り返されている。いかにも不自然に生まれ、不自然に死んで行く。大自然の摂理とは無関係な生死が繰り返されている。

 その為に、本来主役だった生まれて来る者や、死んで行く者は、医者の小間使いに成り下がり、あるいは黒子にまで格下げされてしまった。主役が晴の舞台で、そうした居ても居なくても、どうでもいいような“脇役”に格下げされてしまったのである。これではますます死が荘厳なものから、貧弱なものになる。
 これでそうして人間的な死に方と言えるのだろうか。果たして「より善き死」を迎えることが出来るのだろうか。

 そして現代人は、主役が入れ代わってしまっていることに気付かないのである。
 これこそ、死した後に、無間地獄
(むけん‐じごく)を覗き見ることになる。

 「無間」を“阿鼻
(あび)”という。
 阿鼻とは、八大地獄の第八番目をいう。
 此処には五逆や謗法の大悪を犯した者が、此処に生れる。間断なく剣樹・刀山・かく湯などの苦しみを受ける。諸地獄中でも、最も苦しい地獄とされる。
 それゆえに阿鼻地獄ともいう。また無間地獄ともいうのだ。まさに阿鼻叫喚地獄とは、このことだ。

 こうした処に生まれ変わらない為には、生きているうちに「静かなる安住」を求めるべきだろう。静寂の中に、「寛ぎ」を求めることだろう。
 静寂の中に、本物がある。騒音に掻き乱された、そうした「音」の中に、心地よいものは存在しない。喧噪
(けんそう)に掻き乱された“音の洪水”の中には、人間の中枢神経の安定を破壊する元凶が潜んでいる。

静かなる音が存在する、静寂なる世界。

 そして静寂とは、「音がない」と言うことではない。此処には、小川のせせらぎのような、静かなる音が存在するのだ。そこにあるのは静寂だけである。




●人の生死

 生命は生まれ、そして死に、再び生まれてくる。生き物は生死を繰り返す。大自然の摂理である。
 人も、その一員である。
 生命は繰り返すのである。生死を繰り返すのである。
 そして人の生死は、昔から「潮の干満」に関係があると言われて来た。長らくそう信じられて来た。月の影響を受けていると言われて来た。古人は、この事を疑わなかった。
 だが、こういう言い習わしも、今日では必ずしも本当ではないと言う。人間の生死は、潮の干満や月の影響を受けたものでないと言う。現代では科学的根拠はないと言う。

 しかし、である。
 潮が満ちるときに一つの生命が生まれ、また潮が引くときに一つの生命が失われる……という古代人の観念や考え方に、共感を惹
(ひ)くのは何も筆者だけではあるまい。
 筆者は、潮の干満、月の影響が人の生死と関係なく、かつ古代人が信じていたこうした感性が必ずしも科学的でないとしても、こういう考え方が好きである。懐かしさを感じるのである。古
(いにしえ)の昔の想いを馳せるのである。

 科学万能時代にあっても、また科学的と云う言葉を好む現代の世にあっても、人の生命は潮の干満に左右されている……というロマンに、何故か心が惹かれるのである。

 一つの生命が女の胎内に宿り、十月十日羊水に育まれ、約280日の期間を経て、生命が誕生してくる。その日がいつ来るか、本当は誰も知らない。昼か夜かも分からない。
 本来は男女の生み分けもままならなかった。性別は、生まれて来るまで分からなかった。
 自然に任せたからである。大自然の摂理に遵
(したが)ったからである。ただ遵えばよかった。

 しかし昨今では、男女の生み分けは、家族構成の指向欲や個人の好みによって生み分けを希望する夫婦がいると言う。背景には人間の指向欲があることは明白である。
 そして、人工的に陣痛を起こす医学技術も発達したお陰で、潮の干満とは殆ど無関係になった。

 生み分け方、そもそもは皆無だったのだが、産科医学の発達により誰にも分からないものがある程度分かるようになった。両親は男女の性別の希望する方を、人工的に、意図的に、ほぼ99%の確率で求めることが出来ると言う。
 そういう事を肩代わりにして、科学と引き換えにしたものは何か。現代人がその代償として選んだものは何か。

 また、人の生き死にも、現代では病院で生まれ病院で死んで行く……。大自然とは隔離されてしまった世の中が、現代である。これを「科学的な時代」と言うそうだ。

 現代人の誕生場所は、まず病院で始まる。
 産婦は出産の前に病院に入院し、陣痛を待ち、生まれる日を待つ。いよいよ陣痛が始まり、突如生まれ出ると、呱々
(ここ)の泣き声を挙げて赤児はこの世に躍り出る。
 筆者はこの光景を、潮の干満と重ね合わせてしまうのである。

 一つの生命が誕生する。それはまさに神秘の一瞬ではないか。
 この世に波動がある以上、潮の干満もそれに絡もう。生命が生まれでる場面にもベクトルの波が密接な関係をもって大自然の摂理に繋がっているのである。
 これを物理的に言えば、空間的にも時間的にも変動するような場の運動のことである。
 更に同じ時刻に、場の量が同じ値をとる点から成る面を「波面」という。その波面が球または平面のとき球面波とか平面波という。

 場の量がベクトル量のとき、このベクトルが波の進行方向に平行ならば縦波の波動が起こり、垂直ならば横波の波動が起こる。そしてそこには、一定点における時間的変化と一定時刻の物理量が起こり、それが波動変化として顕われる。
 そうした粗密運動で、生命は波動の中で生まれて来ると考えられる。これこそ、まさに潮の干満の変化と酷似する。

 人は、生まれる時が来たら生まれる。
 古人は、よくこう言ったものである。
 人工的に陣痛など起こさなかった時代のことである。そのことだけ知っておれば、少々予定日が過ぎても苛立つことは無く、年老いた婦人の言に従っておれば、生まれる時が来れば生まれたものである。人はみなこうして生まれて来た。かつては皆そうだった。

 年老いた婦人たちは、既に自身の出産の経験によって、人間の肉の眼には知り得ぬ、大自然の摂理の大きな存在を知っていたのである。それが、人は生まれる時が来たら生まれる……という言葉だった。
 この言葉は、一方で人間の無力を悟る言葉でもあった。だから「お任せする」のである。大自然にお任せするのである。それは神仏にお任せすると言うことと同義である。

 半世紀ほど前は帝王切開など無い時代だったから、難産の場合は大変だった。生まれでた胎児が死んだり、あるいは産婦が死亡することもあった。
 ところが、現代は難産でもないのに関わらず、帝王切開を受ける妊婦がいる。
 理由は、九星気学や四柱推命の占いによって、あるいは病院の方位の関係によってと、科学的と云う言葉を豪語する時代にありながら、実に非科学的な理由で、帝王切開を受ける妊婦がいると言う。
 これは難産の為でない。妊婦とその夫の指向の問題である。

 また、胎児が生まれる際に母親の産道を通ると、その結果、膣が肥大し、夫婦のセックスの際に締まりが悪いからと言う理由で、帝王切開を希望する産婦もいると言う。まさに自分の都合であり、ご都合主義真っ只中と言えよう。
 だが、この盲点は一つの生命の蔑
(ないがし)ろにすることを、生む方も生ませる方も気付いていない。
 何故なら、人の生まることを自らのご都合により、摺り変えているからである。
 つまり、「生む」と言う行為が、「産んだ」というのでなく、無理矢理「出した」と言う行為に摺り替わっているからである。
 こうして出てきた後天の生命に、何ら不可思議な影響は起こらないのだろうか?……。

 現代人は医学の進歩により、人間が「人の生命」までもをコントロールし始めた。そして人の生死まで左右する、生殺与奪の権まで握ってしまった。
 科学的なる知識が技術に結びつくことによって、現代人は自由に、思うがままに現象界をコントロールし、支配しはじめた。

 だがこれは人間の思い上がりであろう。
 科学的なる科学を信仰する現代人の思い上がりに過ぎない。
 人の生死は潮の干満に関係ない……。そう一蹴する。だがそれが一体何だと言うのだろうか。
 これでは益々大自然の摂理と平行線を辿るばかりである。人と神とは擦れ違いの平行線を辿る道を歩いている。



●死の兆候

 生命の火が、今まさに消えんとする時機、そこには死の兆候としての「死相」が顕れる。
 古人はそのように云った。解くに霊能力のある者は、人の死相を読むことが出来た。
 それは不可視世界の出来事としての死相の顕われとしては、眼等にその暗示が顕われ、経絡上の経路としては、太陰→少陰→厥陰→死の順に顕れる。古人はそのように感得していた。

 太陰は手の肺経
(白)と足の脾経(黄)、少陰は手の心経(赤)と足の腎経(黒)、厥陰は手の心包経(各色)と足の肝経(青)に顕れる。
 それは死相であり、やがて迎える死を知らせるものである。古人の霊能力者は、人の死を間近に知ることが出来た。

 「眼」に顕れる死相としては、白目の部分が青い人は霊感の強い人で、時として“疳
(かん)の虫”が起きている幼児にも見られる。
 黄色は脾経で、五行の土
(ど)であり、土は五行の中心を為(な)す。
 したがって、臨終間際なら明らかに死相と判断できる。五行の中心が冒されれば、脾経に顕われた黄色の相は、その人自身の人格も破壊される。フリーセックスや浮気、不倫に趨
(はし)る男女に多く見られ、「易」でいう、「竜宮に色が流れる」に当て嵌(は)まり、白い部分の鼻寄りの部分にほんのりと“朱”の色が出る。

 これが黒目に出れば「黄竜」といい、色情因縁の最たるものとされる。そして死相で、“朱が流れる”のは現世における「色情因縁」で、女の場合は色情因縁に狂う死相と謂
(いわ)れ、またその亭主はその妻によって、横死させる相ともいう。

 「腹」に顕れる死相は、東洋医学では“腹証
(ふくしょう)”という。
 人体中心部の正中線上の会陰
(えいんぶ)部から発する任脈(にんみゃく)上には臍(へそ)の部分の神闕(しんけつ)を通り、“鳩尾(みぞおち)”の中心部、更には胸から喉(のど)を通って下唇の中央部まで昇っていく。
 この場合、「陰気」はこの任脈線上を逆のコースを辿り下降する。そしてこの任脈上に顕れる死相としては、神闕から下部の恥骨部に“うっすらとした青黒い線状のもの”が出る。

 この場合の死相としては、まず下唇に顕われ、喉を冒して喘息
(ぜんそく)を起こし、次に乳頭の横線が交差する部分が「ダン中」であるから、そこに顕れるとヒステリーを起こし、下って上カンで心臓障害を起こし、更に下って中カンで脾臓と胃を冒し、次第に死に近付く。そして、「神闕」は、重大な生死の分かれ道となる。

 ちなみに「正常な死」の時は、人体内の生命力は神闕から背中にある側の督脈
(とくみゃく)の命門(めいもん)に達し、背骨の両脇を上昇して、頭部の天辺(てっぺん)の“ブラフマ(ブラフマン)”の開口(百会・通天)から体外に霊魂が抜け出すのである。

 また、水死や交通事故死などの時には、頭部のブラフマの開口が閉ざされて開かず、霊魂は体外に抜け出すことが出来ず、そこで肛門と睾丸
(女の場合は女陰)との中央部にある会陰から、「陰の総気」として外に漏れ出すのである。
 ブラフマの開口から出た陽の生気霊
(陽霊)は、陽の性質に基づいて昇天し、会陰から漏れ出した感応の陰気霊(陰霊)は下降し、あるいは迷い、地縛霊としてその場に縛り付けられ、永く止まることになる。こうした陰霊に対し、陰の性質を持つ“念仏”を唱えれば、それに反応し、地縛化が進む。

 更に“念仏”の「南無阿弥陀仏」は、二拍子であり、「二」は陰数となって“マイナス”に通じ、陰は下降である。陽数がこの場合、上昇であるから、宇宙のリズムは神が舞い上がる為には三拍子が必要とされる。
 五行の相剋に配列すると五行の分類には木・火・土・金・水の順となり、これが「五気」である。五気に当て嵌めると、木は“妙”・火は“華”・土は“経”・金は“法”・水は“蓮l”となり、ここに「五題目」が登場する。妙法蓮華経となって、日蓮聖人の題目となる。そしてこの「妙法蓮華経」は、まさにリズム的には「三拍子」なのだ。

 この三拍子を考えると、「三」のリズムは、例えば世界中のシャーマン霊媒が、神懸かる為の必要条件であるとされる。特に巫舞
(ふぶ)の原型を為す「舞い」は、やがて神懸かることで三拍子に変わることである。これは“舞い”から「踊り」に変わってことを意味する。沈む舞いから、浮上する踊りへと変化するのである。
 したがって、「二」の拍子の南無阿弥陀仏は沈む「陰数」であり、「三」の拍子の南無妙法蓮華経は浮上する「陽数」ということになる。

 臨終に際し、問題は沈む陰数か、浮上する陽数かということになる。陰数は下りで、陽数は上りとなる。
 下りは「地」を現し、上りは「天」を現す。
 したがって、陽気の強力な昇天霊に対しては中和作用で、“南無阿弥陀仏”と唱えれば、ブラフマの開口を、やや縮める役割を果たすが、一般人に脳天気な陽気人は少ないので、二拍子の陰数で念仏を唱えると、頭部のブラフマの開口は益々縮み、霊魂が外に出られなくなり、止む終えず、会陰部から出るという状態になるのである。その結果、会陰部から出た霊魂は、不成仏霊に堕ちていかざるを得なくなる。

 以上のように、今まさに死なんとする人は、その人の死に際して、既に「死相」が出ているのである。この死相こそ、「死の兆候」と言えるものである。



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