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合気揚げ戦闘思想 3


●伸筋と屈筋をアンバランスにする鍵は合気揚げである

 伸筋と屈筋の配分の「5:5」の関係が崩されると、伸筋と屈筋にバランス異常が起る。合気揚げをする際、単に力で相手を釣り上げるのではなく、この時に瞬時に特殊な躰動法を用いる。つまり躰に「うねり」を起すのである。

 この「うねり」により、両手を封じた相手は、まるで“魔術”にでも懸
(かか)ったように体勢が崩されてしまう。その際、術者は肩を縦に回転させ、相手を崩すのである。
 合気揚げは、躰動法と同じく、合気を会得するまでの一種の鍛練法であるが、相手に力一杯、両手頸
(りょう‐てくび)を掴ませ、術者は上肢だけを用いて、相手を“宙吊り”にする鍛錬である。この鍛錬は、単に力だけでは、相手を浮かし、宙吊りにする事は出来ない。

 肩の「縦移動」と、その肩を「縦方向に回転させる技術」が必要である。
 多くの武道競技や格闘技や、その他に人間が行うスポーツや運動は、「横回転」で旋回する動きが多い。スポーツでも、野球やテニスその他に球技を見ても分かるように、右から左、あるいは左から右と言うように、左右何れかに振り回すものが多く、縦に動かすものは、ほんの一握りと言わなければならない。ボクシングやキックなどの格闘技においても、明らかに腕を右から左、左から右と、「横に振り回す」ようになって居る。

 こうした動きをする場合は、基本的に力を必要とする。それは重力方向である、ジオイド方向に逆らう為である。当然、地球の引力に逆らうのであるから、強度な力を必要とする。
 一方、剣術などの剣を振りかぶる動きは縦方向である。この縦方向も、単に振り回すと言う動きが主体になれば、当然力が入り、横に動こうとする力になってしまう。したがって、縦方向の動きが崩れる。縦方向の力の働きを崩さない為にも、必要になるものは、高を縦に動かす「うねり」である。
 その鍛練法を躰動法と言い、「うねり」を発生させる技術である。また、「うねり」は、術者の握られた手頸から相手の臂に伝わり、上腕に伝わり、肩に伝わり、更に頸に伝わる。そして崩され、倒れるのである。鵜蹴りを起す際の力の支点は、指先の動きであり、指先は「刀印
(とういん)」を切った状態になっていなければならない。

 その指先の集中により、その集められた力は、手頸
(てくび)から臂(ひじ)、臂から肩、肩から頸(くび)、頸から上肢全体へと移動し、更に胸部へと、あるいは背面部へと移行し、身体の幹部から下肢へと移行する。その目的部位に力が集中されると、最終的には如何なる部位においても、自在に「うねり」を伝える事が出来、ついに相手は人工的に伸筋と屈筋のバランスを崩され、倒されてしまう。

 この時、術者は「うねり」を集中力によって、伝達している限り、伸筋の屈筋はバランスを失う。相手が如何に頑張っても、「うねり」が起っている間は、完全に崩されてしまうのである。つまり、この時に起る「崩し」は、腰、背中、肩、頸や後頭部などへ、連動して「うねり」の伝播が伝わるのである。これにより、まず、「腰砕け」になるのである。

 柔道の崩しは、技を掛ける方が、自分のスピードとパワーによって相手を左右に揺すぶり、下半身の足の乱れに乗じて崩しを仕掛け、技を掛けるのであるが、合気揚げは、柔道のように下肢への崩しを狙わず、主に上肢に向けて崩しを仕掛ける。

 つまり、手頸、臂、肩、頸であり、ここに術者は力を「うねり」とともに伝達し、相手の肩を浮かす事により、一瞬、「棒立ち」にさせることができる。
 この場合の「うねり」の伝達は相手の肩であり、また、術者も自らの肩を前部の胸部から、背後の背へと縦に回転させる動きを施すのである。こうする事により、相手は肩を前から後ろへと種に回転させられ、一瞬棒立ちになる状態が顕われる。



●過去の栄光は、人生を豊かにしない

 武術家は、単に「強弱論」に固執する事なく、試合を離れた、「人間の根本」に立ち帰るべきであろう。また、筋トレの三次元肉体鍛練法を逸して、筋肉無用論の中から、「真の力」を需(もと)めるベきであろう。

 一般に筋肉と言う場合、外側の「外筋」を指す。外筋は表皮の筋肉である。また、筋肉隆々の表面的、力の誇示にもなる。こうした力の象徴である、表皮の現象に捉われる者は多い。
 したがって、肉体美を誇示し、筋肉隆々になる為に、筋トレに励むものは少なくない。また、ボディビルダーを目指して、こうした表皮の肉体強化に励む者も少なくない。この為に、人体には内筋の他に、骨の直ぐ傍
(そば)の「内筋」があることに気付かない者が多い。また、裡側(うちがわ)から、絞り出すように発揮される力が内筋の役割である。そして、これを周天(しゅうてん)の循環と結合させれば、「真の力」となる。

 しかし、これを本当に理解している武術愛好者や格闘技愛好者は少ないようだ。
 二次元平面の戦闘ステージの中で、一時凌
(しのぎ)ぎの「小さな勝ち」を求めようとする。相対的世界の勝ちのみに固執しようとする。
 また、相対的な勝ちに、こだわる世界は、まさに「我
(が)」の世界であり、我では、宇宙の玄理(げんり)に迫る事は出来ない。我で生きて来て、我にこだわる人間の末路は、概ねはスポーツ評論家で終ると、昔から相場か決まっている。

 往年のスポーツ選手が、試合に出る、出ないは関係なく、今なお、自らを鍛えているという話は余り聞かない。昔取った杵柄
(きねづか)で、過去の栄光をひけらかし、「自分は」かつてこうだった」などと自慢話にを咲かせるのが関の山である。しかし、過去を懐(なつ)かしむ、過去の栄光に縋(すが)る生き方では、その時代を知らない若者に説得力はない。

 若者に人生の生き方を教えるのは、単に試合理論から出てくる「強弱論」ではない。弱肉強食論を論じたところで、それは永遠の者ではないことは、年端
(としは)も行かない子供にも分かることである。
 肉体に限界があることは、少年少女でも知っている事であり、50代、60代、70代と齢を重ねた人間が、肉体美を競い合って、仮に70代、80代になっても、10代、20代の若者を凌駕
(りょうが)しているなどとは、一度も聞いた事がない。

 また、人間は老化し、その老朽化した肉体は、決して元に戻る事がない、その肉体が、老朽化した後、何らかの方法を使って、「若返った」という話は聞いた事がない。
 ボケ老人はボケ老人の儘
(まま)、ボケの象徴とされるアルツハイマー型痴呆症に甘んじるしかない。こうした、年老いて、ボケた人が、その後、見事に回復して、社会に復帰し、元気に働いていると言う話も一度も聞いた事がない。

 あるいは「寝た切り老人」が、最先端の現代医学療法を駆使して、植物状態から立ち直り、意識を取り戻して、その後、社会に復帰して、元気に働いているなどという話も一度も聞いた事がない。

 それは、今日の人類において、如何なる人も同様であり、往年のスポーツ選手も、著名なる武道家も、百錬千磨を誇った格闘技選手も、歳をとれば、万人と同じような晩年を迎え、万人と同じに朽ち果てて死んで行く。この死んで行く、事実に、何人も例外は認められない。

 往年のスポーツ選手のみが、その死は華やかで、格段に、その他大勢の人と違っていた等と言う話も聞いた事がない。人の死は、万人、平等に訪れる。したがって、相対世界の現象界に振り回されて居る以上、「一時の勝ち」や「一時の栄光」は宇宙全体からすれば、まさに皆無に等しいことである。

 その意味で、六十数回以上試合して、一度も敗れなかったと称する、二天一流
(にてんいち‐りゅう)の祖・宮本武蔵も同じであったろう。その意味で、二天一流の評価も賛否両論がある。
 人は死ねば、肉体は各々に分解されて、宇宙のへ元素の一人に還元されて行く。総て、帰るべき処に帰り着く。何人も、これに例外はない。

 こうした意味で、一人の剣豪の死とても、万人と同じ玄理
(げんり)によって、元にあった場所に回帰する。
 芸能界と陸続きのスポーツ界や武道界は、若かりし日の栄光は、時代と共に忘れ去れれ、晩年に残された唯一の仕事は、今度は肉体を酷使する仕事ではなく、口先から出任せを言う、スポーツ解説者やスポーツ評論家である。好きなことを、外野の席から喋り、あるいは好きなことを思いのまま表現して、スポーツ紙や格闘技雑誌に自分の好き勝手ら論理を展開するだけである。

 かつてのオリンピック選手やプロスポーツ選手が、晩年、芸能人としてマスコミを賑
(にぎわ)せ、タレント並みに、茶の間の人気を攫(さら)っていることは周知の通りである。過去の事は、古い昔の語り種(ぐさ)である。語り種(ぐさ)に花を咲かせ、過去の栄光を懐(なつ)かしがり、「昔は良かった」などというのも、実は彼等が、芸能人に身を窶(やつ)しながら、「今」を生きてないことである。

 この意味で、剣豪・宮本武蔵も同じだった。
 武蔵は、六十数回の試合後、晩年は熊本城下に屋敷を拝領して、一種の剣客としての生活を行った。そして、その生活の殆どは、見晴しの利
(き)く、山の山腹に潜居(せんきょ)し、風呂も入らず洞窟生活を送った。髪も洗わず、髪もとかず、四六時中警戒して晩年を送った。

 一般には、武蔵のこうした異様なる生活ぶりの根拠を、『五輪書』執筆の為と思っているようであるが、実はそうではなかった。
 二天一流を信奉する信者どもは、『五輪書』執筆の為を信じて疑わぬようである。しかし実は、試合に負け、命をとられ、あるいは片輪にされ、こうした恨みに思う者達を警戒しての洞穴生活だった。

 武蔵にとって、自分が打ち負かした敗者は総
(すべ)て「敵」であり、彼等を負けた恨みで反抗する「怨念の塊(かたまり)」の亡者であると看做(みな)していた。
 人の遺恨
(いこん)は永遠に消えることがないと、百も承知していたのは、何あろう、実は武蔵自身であった。

 一度、人から恨みを買われ、自らが関与して怨念を作った場合、それは永久に消えることがない。人は、意念の奥には「怨念」という恨みが潜
(ひそ)んでいて、その怨念は、殺人者自身を、いつまでも恨み続ける意識を持っている。人の意識が、「意識体」であることは言うまでもない。
 したがって、こうした意識は、一つの意識体として、死霊
(しりょう)となり生き続ける。また、この意識が、死に未(ま)だ遠い時間がある場合は、生霊(いきりょう)として、延々と恨み続ける。恨みに思う唸(ねん)は、意識体が消滅するまで永遠と続く。

 武蔵は、六十数回の試合の中で、人間が意識体である事を知る。「恨みを買われる」ことを、六十数回の試合を通じて悟ったのである。無益な殺生
(せっしょう)だったと反芻(はんすう)する。その為に、晩年は剣を捨てて、怨みの唸から逃亡し、あるいは現実逃避をして、洞穴に潜居しなければならなかった。これこそ、武蔵の「勝者」として大きな誤算であったわけだ。

 人殺しをして、晩年の生き方に幸福が訪れるわけがない。遺族が自分より若い年齢であった場合、自分は死ぬまで命を付け狙われることになる。人の恨みは簡単に消えることはない。



●芭蕉の詠んだ「兵どもが夢の跡」の本当の意味

 松尾芭蕉の句に、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」というのがある。
 ここでいう「兵ども」とは闘う戦士の事である。芭蕉はこうした闘った戦士達の夢の跡を、その凄まじさを「夏草」に置き換えている。

 凄まじい繁殖力を持ち、夏には辺り一面に生
(お)い茂る夏草は、実は、花も実も付けない植物である。芭蕉がこの植物に準(なぞら)えて、戦士を「夏草」に喩(たと)え、詠(よ)み上げたこの一句は、芭蕉の直覚力の凄まじさを感じさせる。

 武士は、本来、忠義、仁義、礼儀、正義、徳義の儒教の説くところの「義」に励んだ。その一方で、裏切りがあり、策略があり、謀略があり、下剋上があった。
 大半の武士は各々の「徳目」を立てて奔走した。十六世紀の戦国期の武士の多くは、鬪うことで自己を表現し、生き残りを賭
(か)けて、あるいは出世を夢見て奔走したことであろう。

 しかし、こうした奔走した武士達の闘いの果ての残ったものは、花も咲かず、実も結ばない「夏草」だった。
 芭蕉は、奥州藤原氏三代
(清衡・基衡・秀衡)の遺跡のある平泉に到着した時、夏草を見て古(いにしえ)の感慨に浸り、夏草を見て当時の武士達の生き態(ざま)を偲(しの)んだのである。芭蕉の眼に飛び込んで来たのは、夏草に準えた、夢に奔走する武士達であった。

 そして、この当時の武士を、即、「弱肉強食」に結び付けたのである。
 生きとし生けるものの総ての闘いは、弱肉強食に回帰される。強い者が弱い者を喰って行くのが闘いの原点であり、ここに下剋上の発想が生まれた。

 弱ければ喰われてしまう。喰われない為には強くならなければならない。強くなる為にはどうするか。
 その基本は、「弱い者を喰って行く」という発想に帰着する。これこそが闘いのメカニズムである。芭蕉は平泉に来て、これを直覚したのである。

 弱肉強食のメカニズムを否定する為には、まず、「人は錆
(さ)びなければならない」と直覚する。この「錆びる」とは、「わび、さび」の世界の「さび」であり、違う見方をすれば「老」である。
 一般に「老」といえば、見下してみられる場合が多いようだ。例えば「老醜」や「老害」などの言葉がある通り、「老い」とは醜くて、他を害するものと捉え勝ちである。

 しかし一方に、中国春秋戦国時代の思想家で道家の祖を「老子」と言ったり、禅の高僧は「老師」といわれる。また、藩の重役を「家老」といい、幕府の重役を「老中」や「大老」といった。これは年功や経験を積むことで、人はもの馴れて来ることを顕わしている。このもの慣れこそ、「老」であり、老にこそ「錆び」の状態が見られる。

 近代資本主義は競争原理が働く世界である。したがってこの世界では、競争原理に邁進
(まいしん)しなかったら生き残れない。しかし、競争原理に立って弱肉強食に世界に突き進めば、その社会全体の成長や経済の拡大と云った部分では物質的に実を結ぶ事があっても、精神分野では何一つ得る事がない。特に、心に結実するものは何もない。

 では、心に花を付け、実を結ばせるにはどうすればよいか。
 猪突猛進的な突撃する弱肉強食の考え方を、「錆び」させねばならない。この「錆び」こそ、芭蕉が言いたかった「さび」だったのである。
 その為には、闘争の意識から解放されなければならない。喩
(たと)え、闘争の意識があったとしても、闘争に「こだわる」ことは捨てなければならない。

 競争の中で生きて、名誉や地位にこだわり、この「こだわり」が捨てられなければ、一層「侘びしさ」は募るだろう。この侘びしさが芭蕉の言う、「わび」だったのである。
 つまり、「わび」や「さび」は人の心の中にあり、これこそが自分自身の境涯の問題になるのである。

 肉体は生まれて、初老の40歳を過ぎれば、やがて老い、病気を背負い、滅ぶものだが、これにも一応の遣いたかがある。生まれて40歳までは「上り坂」であり、初老を過ぎれば「下り坂」に差し掛かる。問題なのは、この「下り坂」に差し掛かった時だ。肉体信奉で、「行け行け」ムードに嵌まっては、やがて自滅の道を辿ろう。

 この自滅の道を辿らない為にも、初老後は、別の肉体の遣い方がある。強に固執し、弱を喰らう「力み」を捨てることだ。
 人間は歳をとれば、競争して人と闘って行く人生が、如何に人間の幸福にとって害になるか気付かねばならない。

 相手と和して、競争するのを止め、和することが如何に大事であるか、人生は教えるのである。これは人間生活における闘争の空しさを著名に物語った真理と言えよう。
 この意味からも、芭蕉の、「夏草や兵
(つわもの)どもが夢の跡」は、これを明確に顕わしている。



●過去の出来事は再来しない

 過去の栄光は晩年には無用である。また、過去は再び戻って来ることはない。
 武蔵の晩年を『五輪書』執筆と称して、武蔵の生き方を美談化する心無い作家がいるが、こうした作家こそ、人殺しの片棒を担ぎ、殺人を美談化する、害毒垂れ流しの人間だった。これに反して、剣聖・山岡鉄舟
(やまおか‐てっしゅう)は、生涯一人に人間も斬っては居ない。ここが宮本武蔵と山岡鉄舟の、大いに異なるところである。

 時代劇作家は、武蔵の『五輪書』執筆を精神統一の為であると大いに、褒
(ほ)めそやした。ところが、内実は違っていた。恨みに思う遺族や、武蔵を殺して一旗揚げようと目論む刺客(しかく)からの攻撃を避ける為に、武蔵は熊本城下に屋敷を拝領しながらも、敢て洞穴生活を続けたのである。洞穴生活を続け、冥(くら)さの中で眼を慣らし、常に敵の攻撃に身構え、防衛手段として洞窟に潜居(せんきょ)したのである。

 世の常識から考えて、六十数回の真剣勝負をしたと言うことは、少なくとも60人以上の人間を殺したという事である。所謂
(いわゆる)、60人以上を殺した人殺しであり、人殺しの血を背負って、武蔵は死んで言った事になる。

 武蔵の『五輪書』や『独行道』に出て来る、「済んだことをクヨクヨするな」の言は、「人殺しは、実に目醒
(めざ)めの悪いものだが、こうした人殺しを反省していては武芸者は務まらない。武芸者である以上、人を殺したことにクヨクヨするな」と言う事であり、これを一種の正義観念で押し通したところに、武蔵がその弁を代弁している。

 幾ら五輪書の中で、武蔵が「徳をわきまえよ」とか「邪な心を捨てよ」とかいっても、それが「心正しければ……云々」と、どう繋
(つな)がるか、あるいは闘技において、「心正しければ勝つ」などと称しても、人殺しである以上、その説得力は小さい。これに説得性をもって聴く耳を持つのは、血に飢えた、同じ真似をする殺人者だけである。

 『二天記』独行道に記された、「わが事において後悔せず」とあるのは、これは「済んだことをクヨクヨするな」と云っているのではない。
 「済んだことを後悔するな」とは、真剣勝負をして、相手を殺した事について、「気の毒だとか、仏心
(ほとけ‐ごころ)を持つな」と言っているのである。負けた方が悪いと、一蹴(いっしゅう)しているのである。

 武蔵は六十数回の試合のうち、真剣勝負で果たし合いをしたと言うが、この記録で一度も敗れなかったと言うのは、逆に随分と人を殺し、傷つけ、少なくとも60人以上は殺害したと思われる。
 また、武芸者として立つ以外に道を知らなかった時には、六度も合戦に参加して、そのうち、四回は先駆けをしたというから、戦場では個人的闘技や合戦としての集団戦法において、随分と人殺しを死を重ねた筈
(はず)である。

 武蔵は真剣勝負を通じて、実戦剣法を会得し、その実戦剣法は一刀の下
(もと)に斬り捨て、相手を即死状態にして斬り殺すものであった。そして、相手の最期こそ、実は悲惨な状態であり、勝負師同士、自業自得と言えば仕方がなかろうが、非業(ひごう)の最期(さいご)を遂(と)げさせたことは事実である。

 こうした、人殺し行為について、武蔵は「一々後悔するな」と言っているのである。殺した相手を憐
(あわ)れんだり、悲しんだり、恐れたり、恥じたりするなと言っているのである。つまり、殺生しても、何の恥じるところもなかったのである。その信条を評するには、実に厳しい表現になろうが、「わが事において後悔せず」だったのである。

 そして『独行道』や『五輪書』の中で、繰り返し追言していることは、殺人者が殺人を犯したことを悔いていては、迷いが起ったり、自身に疑いが起るので、殺した相手に哀れみを感じたり不憫
(ふびん)と思うなとしているのである。つまり、剣豪と、人から恐れられるまでの殺人者に伸(の)し上がって行く為には、最初から最後まで、徹頭徹尾(てっとう‐てつび)、「非常でなければならない」としているのである。

 もし、武芸者の行為が人殺しであったとしても、これは勝負の上での勝ち負けであり、それをしっかりと認識していないと、今度は自分が相手から斬られてしまうと言っているのである。斬られるのが嫌なら、自分の方から積極的に斬って出なければならない。

 非常な殺人等は、現代の世の中では、絶対に赦
(ゆる)されるべきではない行為である。幾ら武術の探究とは言え、人殺しを探究して、「心だ」「道だ」と力説しても、それには説得力を持たない。

 だが、よく考えれば、今日の文明社会も、また弱者にとっては非情な社会である。弱肉強食が展開されていたのは、封建時代以前の事ではない。現代の科学万能主義の社会の中にも、武家時代以上に非情な現実が存在している。

 現に、物資文明至上主義の中に、「車」という物質がある。現代人は、この車なしでは、生活が出来ないようになっている。しかし、この車一つ考えても、封建時代以上の、凶悪なる凶器ではないか。
 世界中の何処かで、毎日何千人と言う人が車で殺されている。惨殺されている。しかし、車を造り出し、車の便利さを標榜
(ひょうぼう)する自動車生産会社は、車は人殺しの凶器になる懼(おそ)れがあるからと言って、この生産を中止しない。

 益々、改良に改良を加え、より早く、より快適に、より便利な、多種多様な目的を持った新車種を、毎年、何十何百と造り出しているのである。安全基準も、昔に比べて増えているとも言うが、そはドライバーや、同じ車に乗った同乗者の生命確保が重点であり、歩行者に対しての生命については殆ど配慮がなされていない。
 そして、然
(しか)も今日の文明社会は、車で人が殺されていることを、全く後悔していない。

 人の世とは、そもそもこうしたものであり、全てが大いに矛盾しているのである。ある意味で、この矛盾に逸早く気付いたのが武蔵であったかも知れない。そして、これに気付かされたのが、自分の身辺を窺
(うかが)う、複数の仇敵(きゅうてき)であり、刺客であったかも知れない。
 この時代、真剣勝負ではないにしても、木刀等で立ち合って、試合をした場合、これで命を落す者は少なからず居た筈である。

 それ故、殺された側の遺族や、一族郎党は、心情的にも仇
(あだ)を討ちたいと考えるのはごく自然な考え方であり、家名再興と、知行(ちぎょう)の復活の為に、殺された人間の仇をとるのは一般的な常識となりつつあった。
 こうした世間の動向を敏感に読み取ったのが武蔵だった。したがって、佐々木小次郎との巌流島
(がんりゅう‐じま)の試合を最後に、その後の一切の試合を捨ててしまうのである。晩年になっても、殺人ゲームに明け暮れていては、寝覚めの悪い事を、武蔵は痛い程感じ取っていた。

 つまり、武蔵は殺人ゲームに嫌気が差したのであり、勝負に勝って生き残ったとしても、その後の生活は、極めて細心な注意のもとに、身を護る生活が大変であり、試合に勝ったところで、その後の習性は、一般人以上に、人生を生きる余生が大変であったと後悔しているのである。
 したがって、「わが事において後悔せず」は、後悔の後悔ともとれる。

 武蔵は、現存する洞窟の中で最期を迎えたとある。この最期は実に後悔の多き、最期であったろう。あるいは寝覚めの兇
(わる)い臨終を迎えたことであろう。
 世の中は、徳川政治の定着した時代に入っていた。徳川時代、尤
(もっと)も、武士の美徳とされたのは、まず、「美しく」かつ「潔(いさぎ)いいもの」でなければならなかった。ねっちっこく逃げ回り、だらだらと生き続けることではなかった。

 当時は、美意識が中心課題となり、これが徳川初期の「士道」となり、また、徳川中期には「武士道」の母体となって行く。したがって、武蔵の臨終
(りんじゅう)は、まことに哀れで、寂しく、また臨終を迎えるまでの巌流島(がんりゅう‐じま)以降の人生は、大変に惨めな余生でしかなかった筈(はず)である。武蔵は、晩年、これに気付いた節がある。

 また、過去の一介の剣豪が、大藩での高い身分にこだわらなければ、武蔵の剣術指南の仕官は幾らでもあった筈である。しかし、武蔵は大名か旗本並みの高禄
(こうろく)にこだわった為に、この仕官さえ失っている。こうした事は、今日のプロスポーツ選手の世界でも、容易に見られることではないか。
 武蔵は、自他共に第一級の剣豪を自負していた。したがって、武蔵自身、現実と妥協する安易な道は選ばなかったと思われる。

 晩年の武蔵の実生活を見ると、その姿は、晩年の過度期のおいて、安定期に入り、当時の時代背景が示す武芸の在り方と、武士としての生き態の武士道が、限界にあって、戦い闘技者としての実践と、美しく、潔くをその精神に求める思考には大きな隔たりがあり、こうしたものにも限界、あるいは幻滅を感じていたのかも知れない。

 だからこそ武蔵は、“果たし合い”の世界を離れ、肉体から精神世界へと移行し、書画に打ち込み、別の角度から求道者としての「道」を求めたのではなかろうか。

宮本武蔵の精神世界への移行は、『霊異記』に示された如きのものではなかったのだろうか。『日本霊異記』によれば、「原(たず)ねみれば夫(そ)れ、内経(ないきょう)外書(げしょ)の、日本に伝はりて興り始めし代、凡(おおよ)そ二時有り」と記され、くだりに「天は願ふ所に随ひ、地は宝蔵を敞(ひら)く」とある。これこそ、「因果応報」を短直に顯わしたものではあるまいか。

 今日でも、若い頃、一時的に名を馳(は)せ、有名人になって一世を風靡(ふうび)するプロスポーツ選手は多い。しかし、得意絶頂期に隙(すき)を作り、一度でも敗れる事があれば、世間はこうした選手に見向きもしなくなる。勝ち続けている間が有名人であり、一度敗者に転落すれば、その後の人生は、埋没だけが残される。こうして去って行くプロスポーツ選手は多い。それは“過去の栄光”に固執するからだ。時は変化し、世の流れは移り変わると言うことを知らないからだ。
 人間の無力は此処にあると言ってもよい。人の心は刻々と変化することを知るべきである。



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