運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
歴史に記された教訓 1
歴史に記された教訓 2
歴史に記された教訓 3
歴史に記された教訓 4
歴史に記された教訓 5
歴史に記された教訓 6
歴史に記された教訓 7
歴史に記された教訓 8
歴史に記された教訓 9
葉隠恋愛論
home > 歴史から学ぶ教訓 > 歴史に記された教訓 1
歴史に記された教訓 1


歴史に記された教訓

ナポレオン・ボナパルト

はじめに

 歴史から学ぶべき事は多い。歴史に学ぶ事は、決して閑人(ひまじん)の道楽ではない。人類が生きて行く上では、歴史こそ大切な、最も価値ある「教訓集」である。ところが、この「教訓集」を否定する人が居るかも知れない。
 それは、「歴史」という過去の出来事が、単に事件の事例であり、これから先、人類が遭遇するであろう未経験な事態には、全く役に立たないと決め付けている理由によると思われる。

 だが、こうした考えは間違っている。
 確かに歴史を振り返れば、十八世紀以前には、原始共産制
【註】階級分化以前の原始社会に存在したと推論される社会体制。その主体は血縁を中心に、土地その他の生産手段を共有し、共同の生産と平等な分配が行われたとされる社会制度)を除き、私有財産制の否定と、共有財産制の実現によって、貧富の格差をなくそうとする思想や運動である「共産主義」という考え方はなかった。

 それどころか、マルクス・エンゲルスによって体系づけられた共産主義は、二十世紀後半に「共産主義社会の崩壊」と云う時代が来る事も予期できなかったのである。プロレタリア革命を通じて実現される、社会体制は“砂上の楼閣
(ろうかく)”と消えた。したがって、歴史から学んでも、何の教訓もえられないではないかと言う考え方がある。

 ところが、こうした「歴史教訓諭」を一蹴
(いっしゅう)する考えは正しくない。古代や中世において、確かに共産主義も存在しなかったし、共産主義が崩壊したと言う歴史もない。歴史がないから、参考にする事例もない。この意味で、歴史教訓諭を安易に見る考え方がある。

 だが、こうした歴史には存在しなかった事を、更に歴史の中で探し出していくと、「一時期、世界を支配していた原理や体制が老朽化して崩壊する」という事態があった事が分かる。これと、「共産主義崩壊」を重ね合わせれば、その時期に、国家がどう動き、その民族がどのような決断をし、何処に善後策を探し求めたか、確かにこうした「動いた跡」は参考になる。そそまま真似をする事は出来ないが、その時代の賢者の苦慮
(くりょ)した跡と、その行動原理は、原罪人にも見習うべき足跡が沢山残されているからだ。

1917年、ロシア革命に成功、その後ソビエト政府首班として社会主義建設を指導したレーニン。

 さて歴史を紐(ひも)解くと、歴史に刻まれている多くは、“戦争”や“革命”といった血腥(ちなまぐさ)いものが大半である。まさに人類の歴史こそ、悲劇的な結末をイメージさせるカタストロフィ(catastrophe)である。人間は何故に、こうまで争いを好み、大異変を好むのか。心はどうして安住(あんじゅう)しないのか。この探究こそ、人間の持つ正体を見極めるキーワードとなろう。

 歴史を見ると、そこには各々の時代的区分として、各流れに断片的な、区切れ目が存在することが分かる。句切れ目ごとに時代を象徴するような事象が流れ、戦争や事件が起り、それが波打って、一種の渦を巻き起こしている。流れと、その時代を風靡
(ふうび)する巨大な渦。これを遠望的に眺(なが)めれば、そこには歴史の大変動を読み取る事が出来る。
 また歴史は、河の流れに酷似する部分がある。

 河は、滔々
(とうとう)の流れるばかりでない。ある時は氾濫(はんらん)を起し、激流となり逆巻く。逆巻いた波は、更に激しさを増し、巨大な渦を造って何もかもを呑(の)み込んでいく。風によって、波の高低は上下の振幅の激しさを増し、あるいは風が止み、さざ波へと変貌(へんぼう)する。この河こそ、歴史を押し流す原動力である。

 また、河の流れの行き着いた先には、必ず滝がある。ひとたび其処
(そこ)が、落下点となる。そして再び、落ちた箇所から河となって、流れ始める。
 高きところから流れ下る、上流域では流れも細く、水量も少ない。下流に下るに隨
(したが)って、水量を増し、河幅も広くなる。しかし、河幅か広くなっても、常に流れる水のねりは、凪(なぎ)の日ばかりではあり得ない。突如の突風に、大きな波のうねりを造る事もあろうし、あるいは渦巻き、渦の中に引き込む恐ろしい力も持っている。あるいは滔々と流れながら、その先が海へと展(ひら)けているかも知れない。

 人は、この河の流れに小舟を乗せ、これを下る旅人であろう。しかし、この旅人に降り懸
(か)かる運命は、常に順風満帆(じゅんぷうまんぱん)とは限らない。大波を受けて途中で転覆(てんぷく)するかも知れないし、あるいは大渦に呑み込まれて藻屑(もくず)と消え、敢(あ)え無い最期(さいご)を遂げるかも知れない。

 さて、「歴史」とは、人間の集団活動の時間的な集積だという事が言えよう。その集積の中に、人
(ひと)様々に生活があり、人生の軌跡を描き出している。人間の行為の多くは、「欲望」に集約されている。この欲望こそ、「人の行為」であると言える。そして歴史を丹念に追って行くと、人の行為の中には、ある一定の自然科学的な法則に行き当たる。

 更に、この自然科学的な法則を紐
(ひも)解いていくと、歴史の中には、単に繰り広げられる「人間模様」だけではなく、歴史を繰り広げる人間の叡智(えいち)が点在しており、この叡智に、後世の人間は学ぶべき価値感を見い出すのである。そして、この叡智こそ「教訓」と云われるものなのである。

 叡智を学べば、人生はそれだけ豊かになる。過失や被害妄想なども、事前の止めることが出来よう。深傷
(ふかで)を負わなくて済む。そこには回避する項目がゴマンときるされているからだ。人が歴史に学ぶべきである。
 人類の棲む地球自体の未知なるものを求めると同時に、人類の歴史に記された国々の気候や風土、それに気質や生活様式に適
(かな)ったものを探究することが、自分の生まれ育った環境下を理解することでもある。

 さて、一説によれば、「歴史は繰り返す」と言う。しかし実際には、歴史は繰り替えされる事はない。歴史が繰り返すように見えるのは、人間性の反復であるからだ。
 つまり、歴史が繰り返すのではなく、人間性が繰り返されるのである。
 これを「お人好しな日本人は、歴史が繰り返す」と見ているのである。大きな間違いである。
 歴史は繰り替えされない。そのように映るのは、人間性の反復だけである。

かつて日本人は、中国東北部の満洲の大地に砂上の楼閣を築き上げた。満洲の原野に突如出現した新京。昭和7年(1932)、もと清の宣統帝であった溥儀(ふぎ)を執政として建国された満洲国が成立すると、地理上ならびに交通上の中心地として長春が国都となり、この地は「新京」と改められた。かつては人煙すら殆ど認められなかった長春の原野が突如として、まるで蜃気楼でも見るように近代建築が続々と出現したのである。南北に貫く“大街(だいがく)”と、東西を走る“大路(おおじ)”を軸に新市街が広がり、建国当時の人口は12万人であったが、そのうち日本人は370人だった人口も、昭和14年には総人口が37万人になり、そのうち日本人は7万7千人に増加した。

 写真は昭和14年当時のもので、大同大街の新京の“都
(みやこ)大路”の中心街であり、此処には各省庁が軒を並べていた。しかし、その6年後には、新京は一夜にして砂上の楼閣に帰するのである。まさに日本人は、中国の彼地に砂上の楼閣を築き上げ、それは幻と消えた。しかし、砂上の楼閣を築き上げたのは、何も戦前の日本人だけではなかった。戦後の日本人も、まさに歴史が繰り返されるように、また中国の彼地に砂上の楼閣を築き上げているのである。これは日本人の宿痾(しゅくあ)であり、歴史が繰り返されるように映るのは、日本人の人間性による所以(ゆえん)だろう。

 人間性が繰り返すのであれば、現在、中国の彼地では、老獪(ろうかい)な中国人と、お人好しな日本人が、老獪の糸に操られて、再び、彼地の砂上の楼閣を築き上げているのである。一切を、人間性の老獪な彼等から、巻き上げられる事を知らないで。
 実際に私たちは、過去から現実に対する教訓を得るよりは、現実から過去について、真摯
(しんし)に学ぶ事の方が多いのである。



●孔明《三顧の礼》篇

 劉備玄徳(りゅうびげんとく)は建安十一年(206)四十六歳になっていた。当時の劉備は、荊州
(けいしゅう)の長官・劉表(りゅうひょう)の一傭兵隊長でしかなかった。関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、趙雲(ちょううん)という一騎当千の荒武者は揃(そろ)っていたが、知謀(ちぼう)に長けた軍師は持っていなかった。

 劉備は必要にかられて、荊州の野に遺賢(いけん)を探し求めて奔走した。知謀に長けた補弼(ほひつ)の家臣が欠けていたのである。その時、奇(く)しくも水鏡先生といわれた司馬徽(しばき)に出くわす。

 司馬徽は劉備にこう応える。
 「儒者や俗人では、時にあった仕事は出来ません。それを知っているのは俊傑だけです。この地方では伏竜(ふくりゅう)と云う鳳雛(ほうすう)ならいますが、それは諸葛孔明(しょかつこうめい)士元(ほうしげん)です。私の友人に諸葛孔明が居ます。これが臥竜(がりょう)です。将軍は御会いになりませんか」

 こう勧められて、劉備は是非孔明に会いたいものだと思う。
 そこで劉備は、「きみの友人なら、きみも一緒に着いて来てくれまいか」と懇願する。
 これに対し、司馬徽は、「いや、将軍自らが出掛けて行くべきです。決して呼びつけてはなりません。どうか駕(が)を枉(ま)げて、孔明の家をお訪ねしていただきたいのです」

雪に埋まった、隆中の山中を関羽と張飛を伴って、遥々訪ねた劉備だが、一度目も二度目も会えず、三度目にやっとのことで成就する。

 劉備は、こう言われて孔明を訪ねた。しかし、一度目も二度目も会えなかった。
 劉備は一傭兵隊長とは言え、「左将軍」と「宜城亭侯
(ぎじょうていこう)」肩書きを持ち、千軍万馬の間を駆け巡る将軍としてその名は、この地方でもよく知られていた。この劉備が白面の青年を訪ねたのである。それも「三顧(さんこ)の礼」を尽くしてである。異例の出来事であった。そして劉備の低頭平身は、乱世に相応しい従来の中国における君臣関係を超えたコペルニクス的な回転に他ならなかった。

 劉備は孔明
(こうめい)に時勢について熱っぽく語り、漢王室の衰微に嘆き、漢王室の衰退を望む勢力が大きくなって、いまや風前の灯火(ともしび)だと説き始める。そこには君主としての沽券(こけん)など、金繰(かなぐ)り捨てた等身大の劉備の姿があった。
 孔明はこの時、劉備の見せた熱意に、「ひとつこの人に賭けてみよう」という気を起させたに違いない。

 ついに孔明は劉備
の「三顧(さんこ)の礼」に応えた。また、孔明は劉備の人柄に惹(ひ)かれ、これを機に仕える事になる。
 劉備のモットーは、「人を知り、士をを待
(たい)す」であった。孔明も、劉備の熱意と誠意には心を動かさずにはおかないものがあったのだろう。そして、時は動乱の時代であった。
 孔明には自らの描いた気宇壮大
(きうそうだい)なプランがあった。これこそ「天下三分の計」であった。そして「天下三分の計」を提唱し、独自の国家論を示す事になる。

 時代は風雲急を告げる三国動乱の時代であり、この時代の幕開けは、曹操
(そうそう)率いる魏軍を、「赤壁(せきへき)の戦い」である。義軍を打ち破った様々な孔明の奇策(きさく)が、光り輝くことから、この三国時代は始まる。
 ここで用いられた孔明の奇策は、孔明自身の特異な本質を物語ったものと言えよう。

 その後も、孔明の特異な本質は、様々な局面に対して用いられ、万民の信頼を得て、劉備のカリスマ性と、孔明の知謀が巧妙な調和となり、人を束ね、動かす事になる。これは「水魚の交わり」として、後世にも名高い。
 また、孔明の特異な本質は、「奇策」に代表され、その要
(かなめ)となるものは、政治力学を駆使したものであった。

 そして、知謀の将たる孔明は、在野の武将が目指した武力を至上とする思想とは異なり、豪傑・武将が見せつける力での圧倒ではなく、頭脳を駆使して立ち回ったところに、孔明自身の知将としての存在を、否応なく見せ付けていく事になる。
 また、孔明が描いた天下三分の計は、強大な力を持つ魏
(ぎ)に刃向(はむ)かう事ではなく、その魏の存在を素直に認め、これを天下三分の計の一国とし、更に孫権(そんけん)の呉(ご)を一国に加えて、自らは蜀(しょく)として、天下を三分の一ずつの力関係において、ここに「天下の拮抗(きっこう)」を求めた事であった。

 この国家論こそ、大国二国が相対一元論での対局に陥る事なく、更にこれに一国加わる事により、大国二国を制する絶妙な拮抗力に目を付けた事であった。この国家論は、これまでの一国支配構造を目指す国家理念とは異なり、本質的には政治力学を駆使した新たな国家経営論であった。したがって、魏と呉の二大対極の中に、蜀の一国が加わる事で、ここには牽制
(けんせい)し合う絶妙なバランスが出来上がったのである。

 孔明が天下三分の計の発想に至ったのは、これ迄の劉備に仕える以前の、長い間に集積した情報の積み重ねがあった。戦乱の中を歩き回り、国々の風土気候を調べ、人間までもを研究していった足跡が見て取れる。更には、情報網の独自な展開も、天下三分の計の発想に繋
(つな)がったものであろう。

 こうした一面が、孔明を予言者的な聖域にまで押し上げ、更には戦いの場を武力のみに集約せず、「外交」という情報戦に展開した事で、孔明の存在感は益々大きくなっていく。そして軍師としての孔明に働きは目覚ましく、天下三分の計の発端となる赤壁の戦いは、孔明の力量を否応なく見せ付けていく。赤壁の戦いによって、孔明の描いた壮大なプランは、ここに開花するのである。孔明がこれまで胸に秘めた天下三分の計の大計画は、この時に動き始めたのである。

 曹操の魏軍が、百万の大軍を以て南下し始めたのは西暦208年の建安13年の事だった。劉備軍が曹操軍に追われる形で、夏口
(かこう)に向かい、劉表(りゅうひょう)の子である劉(りゅうき)を頼った。そこで樊口(はんこう)の布陣していた際、魯粛(ろしゅく)の勧めで、孫権の力を借りて、曹操軍に対抗する策をとるのである。

 この策は、まさに曹操との武力の均衡を保つ妙案だった。
 一方、長坂坡
(ちょうはんは)で劉備軍を壊滅寸前にまで追い込んだ曹操軍は、江陵(こうりょう)から長江(ちょうこう)を東へ下り、この時に劉備軍と孫権が連合の手を握った事を知る。しかし、魏の曹操軍の快進撃は目覚ましく、劉備と孫権の連合軍など、如何ほどのものかと侮(あなど)り、また自軍の力を過信しはじめる。この過信状態にある曹操軍と、劉備・孫権の連合軍が赤壁において激しい戦闘を繰り拡げるのである。そして曹操軍は、この戦いに大敗し、敗走するのである。

 曹操軍を打ち破る要因を作ったのは、孔明の戦略によるところが多い。孔明の戦略は、国家間の力関係を巧みに利用した頭脳戦であった。また孔明の策術家としての特異な才能も光る。同時に戦局の局面には、孔明の奇手の策術が見事に働いている。

 「天には天文に通じ、地には地理に通じ」と謂
(い)われた孔明は、単に天体の星の動きを観察するだけの知識に止まらず、日々の気象の変化や、季節ごとの風向きの変化まで、地理的に把握していたと思われる。そして、これを戦いに用いたのであった。これが孔明の知謀たる所以(ゆえん)であろう。

 例えば、赤壁の戦いにおいて、一万本の矢を三日以内に用意するという孫権の条件においても、敵から矢を奪うのであるから、敵から矢を奪うにはどうしたらよいか、また、矢をこちら側に射掛けさせるのであるから、この場合を気象条件はどうした場合に可能か等の詳細な事象を知らねばならなかった。

 更に、風向きを返るには、どうしたらよいかという物理的な事象には、その風向きの風力を考慮した火の力を最大限に発揮する気象分析が必要であった。
 これ等のいずれの奇策も、幾多の情報を知り得、更には分析すると言う能力が必要だった。孔明はこうした奇策を総て会得していたのである。孔明の奇策により、赤壁の戦いに勝つ事が出来たのである。

 人は、それぞれに人生に志を持っている。しかし、事、志
(こころざし)とたがい、ついに失敗して強に至る者が多い。
 その意味で、劉備が弱者でありながら、戦乱の世を生き抜けて強くなり得たのは、孔明の働きによるものも多いが、また劉備自身、天運に恵まれたばかりでなく、人を動かすカリスマ性と同時に、孔明の知謀も、また絶妙に絡み、その総力の結晶が「天下三分の計」の実現でもあった。




  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法