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理趣経的密教房中術・プロローグ
理趣経的密教房中術 1
理趣経的密教房中術 2
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夜の宗教・真言立川流
続・夜の宗教 真言立川流
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理趣経的密教房中術 16

人間の用いる言霊は、言葉に宿っている不思議な霊威であるばかりでなく、「言葉」というものは、則(すなわ)ち、「光透波(ことば)」であり、これは神の言葉を、そのまま人間が使っていると言うことを顕わしている。
 古代において言霊は、その力が働いて、言葉通りの事象がもたらされると信じられた。そして長い間、物質世界では一種の迷信と一蹴されて来た。
 しかし、人の言葉に一種の威力を持った力の働きと言うのは、やはり大脳を刺激し、対峙する相手の殺生与奪の力があることが分かって来た。これは、心理学的にみて、人間は心と言う情緒の世界に生きる感情動物であり、この感情が人間の行動を明るくしたり暗くすると言う、研究で明らかになって来た。
 則ち、言霊と言うのは、それ自体に力を持っているのである。


●金剛三昧耶の理と蛸踊り

 男性器は三つの区分に分類される。それは睾丸、陰茎、亀頭である。
 また女体も男性器と同じく、三つのそれが当てられる。女性に胸にある二つの珠
(たま)は、ふくよかな乳房であり、これは男性器の睾丸に当たる。しなやかな背面は男性器の陰茎である。そして、盛り上がった尻の丘は亀頭なのである。
 こうして女体を観ると、胸から背面、背面から尻の丘は、まさに一本の男根と観
(み)ることが出来るのである。則(すなわ)ち、女体は総てが生殖器であり、ここには上肢も下肢もなく、また人格すら存在していないことが分かるであろう。
 これこそが、女と言う生き物の実体である。

歓喜体位秘法

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 この観
(み)たてに随(したが)い、睾丸である乳房へ精を吹き込み、男根が力強く勃起するように、女体の背面へと精気を漲(みなぎ)らせるわけである。また、尻の丘を優しく撫(な)でて刺戟(しげき)すれば、亀頭が膨らむが如く、女体の尻は充血し、膨張するのである。これは「金剛三昧耶(こんごう‐ざんまいや)の理」である。
 女性のふくよかな乳房は、単にミルクタンクではない。乳房こそ、男性器の睾丸に匹敵する愛情溢れる生殖器の根源なのである。密教房中術では、これを「天宮宝蔵
(てんぐう‐ほうぞう)」という。「宝蔵」とは、仏典の経文をしまう経蔵(きょうぞう)のことである。
 女体の乳房は、天に存在する宝蔵のように美しいものである。男にとっては、非常に魅力的で、実に美しいものである。
 しかし女体の乳房が、男性器の睾丸に当たるのであるから、ここがペチャパイというのでは、男の睾丸がしなびていて、ペッタンコの陰嚢
(いんのう)を思わせるようで、この中が空っぽと言う事になり、ペチャパイは女性美に欠けると言うことになる。

 したがって、巨乳になる必要はないが、ふくよかで、柔らかく、しなかやである程度の豊かさを持った乳房でなければ、女性としての魅力はないものである。その為に、女性のバストを豊かにする法が必要になるのである。
 ヨーガなどを試みた人であるながら、別に難しいことではない。まず、合掌をし、両手をしっかり合わせ、臂
(ひじ)を上げ、肩と水平にして、力強く合掌をするのである。
 これはヨーガのポーズにもあるし、また滝に打たれる場合の、一心に呪文を唱える荒行のスタイルでもある。この法は、息を吐く時に両掌同士を力強く押し付け、息を吸う時に合掌した手を、やや弛
(ゆる)めるのである。

 これを10回程度続け、その後に合掌を解いて、指と指を絡ませ、左右に引っ張るのである。これは息を吐く場合に弛
め、息を吸う時に力強く引っ張るのである。
 この時に唱える呪文は、「オン・ア・フン」である。
 この修法を行う時に、男の力を借りて行う術を、俗称「蛸
(たこ)踊り」という。
 この法を行う場合は、まず女性が仰臥
(おうが)する。男はその女体の胸許(むなもと)に取り付いて、よく擦(す)り合わせ、掌に摩擦熱を発生させる。熱の起った両掌を乳房に当て、両掌で取り囲み、揉(も)み上げる体勢をつくる。

 次に、女性が息を吐く時、掌で、乳房をぐっと盛り上げるようにする。女性が息を吸う時は掌を弛める。こうした動作を繰り返しているうちに、乳房は段々固くなって来る。そうなった状態に至った時、男は乳房を吸い付けるのである。
 女性が息を吸う呼吸に合わせて、男は乳首を吸うのである。また女性が息を吐く時は、唇の吸い付ける力を弛めるのである。こうした動作を、10回程度行い、そこでこれを一休みし、その間に男は乳首を優しく撫
(な)でたり、舌で乳房の丘を嘗(な)め捲(まく)るのである。
 この姿は丁度、蛸が乳房に絡み、じゃれつきと、吸ったりとの動作が、蛸の踊りに似ているから、「蛸踊り」と称するのである。
 この場合は、「優しく絡み付く」と言うことが必須条件であり、くれぐれも鮫のように、荒々しく歯を立てたり、乳房をもぎ取るような乱暴な動作は慎まなければならない。



●性力増強術

 女体は大地である。大地は生きとし生けるものを生成する。また、その呼吸には、季節の四季が存在する。呼吸の吐納
(とのう)において、息を吸い始める時は「春」。十分に息を吹い切った時は「夏」。吐き始める時は「秋」。吐き切ってしまった時は「冬」である。そしてこれが大地の四季である。

 女体には、こうした春・夏・秋・冬の四季があり、男は女性の四季を味わいながら、大地を相手に様々な修法を行うのである。呼吸は、生命のリズムである。男と女も、この生命のリズムに則し、ゆったりと修法を成就させて行くのが基本である。
 密教では、呼吸の息を「息念
(そくねん)」という。呼吸を数える事により、精神統一を図るのである。息を数える事を「数息観(すうそく‐かん)」という。また、これを念ずる事を「持息念(じそく‐ねん)」という。

 人間にとって最も重要なのは呼吸である。この呼吸は、単に酸素を取り入れ、二酸化炭素を外界に放出する行為に止まらない。生物学的には、生物の組織や細胞が酸素を取り入れて酸化還元反応を行い、エネルギーを獲得することを「内呼吸」というが、その中でも、動作をともにする人と人との間の調子は内呼吸以上に大事なことである。
 つまり男女の呼吸であり、その呼吸は性交並びに二根交会によって、極めて大きな意味を持つ。

 二根交会では、息を入れ、息を出すが如くに、男は陽根を入れ、女は出産として陰根より、これを出す。この呼吸法こそ、歓喜地
かんぎじ/菩薩十地(ぼさつ‐じゆうじ)の第一であり、菩薩が修行によって煩悩を断じ、心に歓喜を生ずる位の意)であり、究極の極致を求める欲天極処(よくてん‐ごくしょ)なのである。
 欲天とは、欲界の中にある「六つの天」のことで、これを「六欲天」という。六欲天とは、三界のうちの欲界の六天を指す。則ち、四王天・トウ利
(とうり)天・夜摩天(やま‐てん)・兜率(とそつ)天・化楽(けらく)天・他化自在天の六つである。

 また欲天を説く場合、「欲天五淫
(よくてん‐ごいん)」なる『理趣経』の愛欲論を説かねばならない。
 また五淫とは、欲天にある六つの仏が各々の方法で交会を楽しむことであり、四天王はトウ利天の人間並みに性交する。夜摩天は、単に抱き合うだけで性欲を満足させる。兜率天はお互に手を握るだけで性欲を得る。化楽天はお互いに笑い合うだけで満足し、他化自在天は検るだけで性欲を満足させると言う。
 これは仏の神秘性とか神聖さを説いたものであろうが、他化自在天は欲天のうちで最高の快楽を楽しむ仏であると言われている。そしてこうした仏達の二根交会には、陰と陽とが肉体を連結させ、その根本は呼吸にあることを説いている。

 喩えば、両手を合わせる合掌も、印喫も、動けば右を陽とし、左を印として結ぶ呼吸の一形態を顕
(あら)わしたものであり、「結ぶ」とは陰と陽が結ぶことを観(かん)じることなのである。
 また、本尊を拝む場合も両手を合わせて合掌したり、印喫を結んだりするのも、一種の陰と陽の連結であり、交会の形態をとっている。
 この場合、合掌を例に挙げて説明するならば、指を直立に伸ばした時は「陽」であり、曲げた時は「陰」である。掌を両手で密着させた時は「一」を顕わし、離した時は「二」となり「陰」となる。陰と陽の組み合わせこそ、男女が合体した姿であり、これは合掌や印喫が造型されたものなのである。

 合体するからこそ、中途半端ではならず、完全に近い形で結合が行われなければならない。そしてそれは、女性のヒップアップ法や豐胸術だけではなく、男に対しても、男根の大きく第二膨張させ、カチカチに固める必要がある。そこで特殊な秘法があることも一筆伝授しておこう。

 そもそも男と言う生き物は、もともとが肉体労働に耐えられるように出来ている。体力仕事は、女より男の方が得意であり、このいみで男と女は平等ではない。つまり、肉体労働に耐えられる男の躰は、交会の修法において、その修行の如何では、立派な精力絶倫男になる事が出来るのである。男根も肉体の一部であるから、鍛えれば鍛える程、強く、逞
(たくま)しく、太く、大きくなり、自分自身の“守護神さま”を鍛えて行く人生に「男の自信」という物が備わって来るのである。

 また「男の自信」は、わが女房が閉経まで、男は性力絶倫でありたいということである。男にこうした自信があれば、当然、運気も勢いを増す。また、女房もそれに応えて、良き伴侶として付き随
(したが)おう。
 当然、夫婦間の会話の中からは、愚痴が消える。何事も、「はい」と言う返事が女房から返って来る。こうして夫婦関係は健全となる。

 しかし、鍛え方を知らない恐妻家は、男性自身にズバリ自信がないから、一種の粗チン・コンプレックスに陥り、これはノイローゼとなったり、勃起不能となり、この環境の中で家庭不和が起り、恐妻家に成り下がっていくのである。したがって、本来「粗チン」というものはあり得ないのである。
 誰もが、立派で、カチカチの強くて、大きくて、完全なる勃起が会得出来るのである。完全勃起こそ、運気が満ち溢れている証拠であり、こうした運気が満ち溢れている時は、仕事も遊びも総てが巧
(うま)くいくのである。そして運気が満ち溢れている時の“守護神さま”は、自分自身の最高の守り神であり、不動明王が男根に宿っていると言う証拠でもある。

恐妻家から脱する勃起角の目安図。男根には第一膨張と第二膨張がある。
 初期の第一膨張は男根が、単に弱々しく勃起するだけでなく、その膨張は、第二膨張するのが、完全勃起であり、ここに至って女性を髪の毛の先まで痺れさせることが出来るのである。

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 人間は、運勢が下降線を辿っている時、“守護神さま”は力の抜けた状態になる。したがって、こうした“守護神さま”は、早朝に風呂場で冷水をぶっかけ、荒縄で叩き、ビンタを喰らわせて、シゴキ上げ、「活」を入れておく必要があるのである。この努力を怠らないものは、常に自信に満ち溢れ、運気が上向きとなる。

 人間は、周期によって運気が上下する。特に凡夫
(ぼんぷ)・俗人のに運命には、陰陽の支配が働く。
 陰陽の支配とは、プラスに動いたり、マイナスに動く「周期」のことである。
 運命には、波があり、必ず上下に振幅する周期がある。
 その周期は、運気を顕
(あら)わすバロメータである、運命学には大雑把(おおざっぱ)に言って、平運期、順運期、盛運期、衰運期、凶運期の五種類に分けられ、これが各々に並び、生まれた星廻りの運行に従って、次々に繰り返される。
 したがって、まずこうした循環を知ることであり、各々が、何年周期か、何ヵ月周期かで循環することを知る必要があるが、それを知り、運命の陰陽に支配に流されて人生を生きるのは、余りにも消極的である。
 また衰運期であるとか、凶運期であるとかの理由で、運命の陰陽に支配に流されるのも、余りにも腑甲斐無いことである。

 人は、衰運期や凶運期に入ると、不幸現象が続いても「仕方がない」と諦めてしまうことが多くなる。
 しかし、その諦めが、次の凶事を呼び、「今日は厄日だから」とか、「方位が悪い」などと、まだ起りもしない未来を案じ、消極的な行動をして、益々運命に陰陽の支配に嵌り込んでいくのである。吉日大安を信じ、厄日の存在を信じ、出向いた先の方位を信じ出したら、その人はまさに運命に陰陽の支配の真っ只中にあると言えよう。
 今日が厄日か否か、その明暗は九星気学や暦の早見表にあるのではない。今日一日を厄日にするか吉日にするか、それはその人自身の、「今日」と言う、またのない一日をどのように行動するかに掛かっているのである。暦の早見表に従って、今日が厄日と思えば、その日一日は厄日になるであろうし、吉日と信じれば、その日一日は吉日の一日が訪れるのである。

 したがって、人間の持つ運気と言うのは、自分を信じるか否かに掛かり、少しでも他力本願に従って、消極的な行動をし始めた時に、思わぬ不幸現象が訪れるのである。
 人間の運命支配において、最も理想的なことは、運命に陰陽に支配されないことであり、吉日にあっても吉日に非
(あら)ず、厄日にあっても厄日に非ず、また吉方に行っても吉方(徳方)に非ず、凶方(方災)に出向いても凶方に非ずというのが、本当に運の良いことであり、運命の陰陽に左右されないことである。
 喩えば、吉方の方位をとって「福」を持ち返ったとしても、方位を誤って「凶」に至れば、これは全く意味の無いことである。こうしたことに振り廻され、結局運命の陰陽に支配されてしまうのである。

 だから、こうした運命の陰陽の支配の軌道から離れ、陰陽に支配されない自己を確立しなければならない。その自己の確立こそ、自分自身に備わる“守護神さま”を礼念することである。この“守護神さま”は、時によってはいつも、固く、逞しいと言うものではない。時には力の抜けた、だらりの情けない姿にもなる。こうした時こそ、毎朝、シゴキにシゴキを喰らわし、一発も二発も活を入れておくことである。
 そして、「しゃっき!」とさせることである。“守護神さま”が、しゃっきとなれば、人間の方もしゃっきとなるのである。
 まず、自分は直立不動の念力で、「ピンと立つ」という信念が必要である。信念は自己意識のかたく信じたところに派生する。したがって、信念をカチンカチンに固めるならば、効果は倍増するのである。



●男の甲斐性

 男の甲斐性と言われるものは、言い古された言葉だが、「女の、
“上の口”“下の口”を満足させる」ことにある。
 “上の口”とは経済力であり、“下の口”は性力の有無を指す。そして念頭に置いておかねばならないことは、女と言う生き物は、少々貧乏であっても、本当に自分の良人が良き伴侶と心から傾倒している場合は、どんな事があっても、必ず蹤
(つ)いてくるものなのだ。
 女は、金や地位、年齢や容貌に、そんなに簡単に騙される生き物ではないのである。もし、それに迷わされる女が居たとするならば、それは間違いなく尻軽女である。

 さて、昔の吉原では、女郎は、嫌な男とは絶対に寢る事がなかったと言う。もともと此処の彼女達は、金で買われている身であるから、嫌と言えない筋合いであるが、だからといって、嫌な客には、「勝手にしあがれ」といって、自分の女根は絶対に開かなかったと言う。
 では、彼女達がどうした客に対して、寝たのであろうか。

 それは、彼女達が、お客の何処かに惚
(ほ)れるからであるという。
 どんな男であっても、一箇所くらいはいい処があるものである。眼がいいとか、口がいいとか、鼻がいいとか、耳がいいとかの顔相上の長所を見つけてこれに惚れ、あるいは心根が優しいとかの美点を見つけ、こうした処を拡大し、それで寝ると言う。
 これは一種の女郎哀史であろうが、同時に、女と言うものは力づくや、金だけでは自由にできるものではないと言うことを物語っている。つまりこれは、男女の関係と言うのは、俗に言う、エロ小説や卑猥
(ひわい)写真・エロビデオに出て来る、そんな直接的なものでないということである。

 エロ小説には、ある好色男が、人気のない廊下で、女中をねじ伏せる話が出て来る。エロビデオでは、直ぐに男女が出会った途端に、服を脱ぎ、下衣一枚になって抱き合い、最後は真っ裸で縺
(もつ)れながら性交をおっぱじめる。しかし、実際には、こうしたことはあり得ない。また、これは動物の交尾などのそれであり、最低と言わざるを得ない。

 男が見る、女と言う生き物は、決して最低の動物であり得ない。
 もっとも、女性に対する接近術のテクニックはいろいろある。接近術のテクニックは、女性が、まだ性欲を欲してないと判断したら、絶対に手を出さないことである。
 つまり、雰囲気が出来上がる迄は、やたらに男の力を行使しないことだ。そう言う処に行き着く迄、男は自分の方から要求してはならないのである。これは自分の女房に限らず、あるいは恋人に限らず、更には、最近付き合い始めた女性に対しても同じことである。

 世間では、交際を始めてその日から、あるいは二回目頃から、ラブホテルに行って寝ると言う男女の、統計が出ている話をするが、もし、一度目、二度目で、直ぐに男と寝るような女なら、この女は相当な尻軽女か、過去世からの淫乱を背負って生まれて来た女と見て、まず差し支えないだろう。
 こうした女は、多くの凶事を抱えているので、恋人にしたり、女房にするのは要注意である。近未来の不幸が、既に、こうした現象に顕われているからである。この程度のレベルの女を相手にしたら、それこそ人生は下降線を辿る、惨めなものになるだろう。

 そこで、しっかりとした女性観で、女と言う生き物を観察する必要がある。また女性も、真摯に観察する男の行動原理に注目しなければならない。
 喩
(たと)えば、知り合った女性と食事をし、こうしたデートを何回か繰り替えしても、女はその気にならない以上、じっくりと腰を据えて待つ必要がある。食事やデートを繰り返していても、その後に、ラブホテルに行くなどは、絶対に禁物である。食事やデートが終れば、肝心な処には行かず、さっさと帰ることだ。
 一方、食事をし、デートをし、ほんの数回でラブホテルに誘う男は、下の下と心得るべきであろう。こうした類
(たぐい)は、大した人物ではなく、小心で、臆病で、一人の女の人生を凶に導く輩(やから)である。

 懐が深く、度量があり、人生を幸福にする男は、本来は婚前交渉はしないものであり、本当に愛する女性と、性の捌け口としての女性は上手に使い分けているのである。したがって恋愛結婚に至っても、結婚前から婚前交渉を迫る男は、所詮小心者の、その程度の男なのである。
 だから、男自身も、潔さが必要であり、じっくりと熟柿が熟するまで待つことが肝心である。
 これが女に接近する最も重要な接近術である。
 人間を始めとする、この世と言う現象界は、「追えば逃げ、避ければ追いかけて来る」という法則がある。
 これを利用すれば、やがて女の方からじれてくるのである。これこそが、自分の需
(もと)める本当の女性なのである。そうすれば、熟した柿は、ひとりでに向うの方から落ちて来るのである。

 特に、相手の女性が、知的レベルが高い場合、こうした戦術は有効であり、知的レベルが下がるに従って、女は尻軽女が多いようである。尻軽女は何かと凶事を招くので、これをしっかりと見抜くことが肝心である。
 人生を失敗したり、人生の良き伴侶を求める場合に、「クソ」を掴む男は、だいたいがこうした尻軽女と寝て、その事後処理の責任上の問題で、一緒にくっついている場合が多い。自分の方が高い位置にいても、女の意識が低ければ、人生は絶対に意図する処に辿り着けない。挫折することが多い。運気は逃げ、運勢は勢いを失い、凶運へと傾いて行く。その後の人生は、まさに生地獄であろう。

 男は、恋人でも、人生の良き伴侶として求める女房候補の女性を求める場合でも、この点を充分に見極めねばならない。その女の持つ過去世
(かこぜ)からの因縁の正体を見極めねばならないのである。
 これは何も、恋人や伴侶を求める場合だけとは限らない。
 喩
(たと)えば、自分が何処かの温泉町に遊びに行ったとしよう。そして、恋人以外に、あるいは女房以外に、女を味わうとしたら、どんな接近術で女性に近付くかということである。
 芸者を上げて遊び、喩えば、その女性と床入り迄の契約をしたとしよう。この時に、金でひと晩買ったのだからという理由で、女性に接しては、男の格が下がろうと言うものである。

 「俺と寢るのが嫌だったら、隣の部屋で休んでもいいよ」と言うくらいのことが、言えなければ、男は自分の懐
(ふところ)の深さを女性に示すことができない。そして、「それでも、一緒に寝たことにしてやるから」と、気前のいい、但し書きをつけることだ。
 この場合、女が本当に隣の部屋で、一人で休んでしまったら、それは、その女がそれ迄の、その程度のレベルの女であり、縁がなかったと諦めることだ。

 しかし、実際には、言われた通りに、本当に一人で寝てしまう女は少ない。
 男から、こう言われた女は、その男の言葉に感動し、懐の深さを知り、必ず寄ってくるものである。
 ここにも、「追えば逃げ、避ければ追いかけて来る」という法則が、しっかりと働いている。

 だから、やはり自分の傍
(そば)に寝かせてくれと、哀願して来るのである。
 だが、話はこれで終ったのではない。此処から先が肝心なところである。一緒に寝て、まず密教房中術の作法に随
(したが)い、女を喜ばせる手順を踏むことだ。
 そして女を興奮させ、燃え上がらせることである。
 さて、その間の話は、密教房中術の手順に随
(したが)えば良いことなので省略するが、まず、自らが密教房中術の修行者であるなら、女は必ず頂点に達し、その後「どうだった?」を訊(き)けば、恐らく顔を赤らめて、羞恥心を抱き「よかった」と心から答えるであろう。これにより、女の心は簡単に捕まえる事ができる。

 だから「女は、まず拒否すべきもの」なのだ。此処にも、「男の甲斐性」と言うものが存在する。
 女で失敗する男は、尻軽女に手を出し、事後処理の不味さが腐れ縁となって、それで運勢・運気を下げている御仁
(ごじん)が多い。
 こうした男達の戦法は軽率の一語に尽き、「一体どうしたら、女を自分の物にできるか」ということばかりにエネルギーを費やし、常日頃から「隙があれば」とか、「あわよくば」と考えている男達である。こうした御仁は、力の行使をもって、強引にモノにしようとする下心があるので、結局、最後は失敗する。事後処理の不味さが腐れ縁となるのだ。

 また、自分の顔
(マスクや上背の高さ、スタイルに自信のある男は、自分の容貌をもって、簡単に女を制圧出来ると高を括(くく)っている。しかし、こうした男の表皮に靡(なび)く女は、結局は尻軽女である。精神性が薄いのである。知的レベルが低いのである。こうした尻軽女に、自分の種を宿せば、子孫の繁栄は期待できないであろう。あるいは「大凶時の禁」に嵌って、生まれた子どもは犯罪者の類だろう。今日、青少年の低年齢化が叫ばれているが、非行や暴力や犯罪に奔(はし)る多くの子供は、こうした男女関係、夫婦関係によってつくり出される子供である。

 また、ジゴロのような、男の色香
(いろか)に騙(だま)される女も、その正体は尻軽女である。
 ホストクラブで遊び、そこにホストに入れ揚げる見得張り女が居るが、結局ジゴロの色香に迷わされた尻軽女であると、自分で自分の愚かさを証明したようなものだ。
 だから男は、「どうしたら女を手に入れることが出来るか」などを、こうした愚かな残像を追いかけてはならない。これこそ、行動としては軽薄なのだ。

 むしろ、女を手に入れようと努力しないことだ。女は「否定すべきもの」で、逃げる女を、無理に追わないことだ。追えば逃げると法則が、此処には働くからだ。
 これは、「女と言う生き物」をじっくりと観察すれば分かることである。少なくとも、こうした観察結果から、客観的に言えば、「女は、男の方から追い掛ける要素」が何一つなく、また、「女は否定すべきもの」であって、こうしたことに一切の未練を抱かないことだ。男は潔さと、未練を引き摺
(ず)らないことである。

 だから、男は顔の彫の深さとか、マスクの甘さとか、美醜は一切関係ないのである。眼の云々
(うんぬん)、鼻の云々、脚の長さが云々、背丈の云々でもない。容姿が素晴らしいからと言って、その容姿が正しいとは限らない。容姿の奥には、表皮には顕われない、何か、良からぬもの潜むものがある。精神的な暗部である。
 男の場合、この暗部は女に比べて非常に深く、懊悩
(おうのう)を棲(す)まわせている者が少なくない。こうした男の懊悩は、頭が良く、顔がいい、観の鋭い女性なら、直ぐに見抜いてしまう。隠しようがないのだ。

 普通、野心というものも、懊悩の中にしまわれている。下心も、懊悩下にある。卑
(いや)しい男は、尻軽女以外の、上のグループに入る女からは、直ぐにその下心が見透かされる。ここに、女の追い掛ければ逃げると言う法則が働く。追う行為を「野暮(やぼ)」というのである。
 世情に通ぜず、人情の機微をわきまえない野暮は、女から敬遠される。力ずくで、モノにしようという愚かさが、不粋
(ぶすい)をつくるのだ。だから、幾らマスクがいい、容姿がいいと言っても、結局、最後は女から逃げられる。

 西洋では、キリスト教主義に則った行動原理が、世の中を牛耳っているので、「叩けよ、さらば開かれん」とある。これは「押しの一手」を説く。押せば女は落ちるという、力の象徴である。「力は正義なり」の仮説を標榜したものに過ぎない。

 しかし、東洋では、これと違う。
 東洋では、「求むるなくんば即
(すなわ)ちこれを得(う)」と教える。
 これは接近術から言えば、欧米の男どものように、自分の方から、気に入った女にジョークを言いながら近付き、ベタベタとくっつき、女の手を握りたい、口付けをしたいと思うことと正反対の行為である。
 欧米の恋愛術は、執拗
(しつよう)に女を追い回し、恋を打ち明け、その後に肉体関係に及ぶという、極めて短い期間に強引に、女をモノにする自由恋愛術が、罷(まか)り通っているが、こうした結果は、その結論にして、今日の離婚訴訟に拍車を掛けただけに過ぎなかった。これも偏(ひとえ)に、「女を追いかけ廻した結果」から生じたものであろう。これこそ、ストーカー的な結末である。
 恋は、打ち明けたその日から、威力を失い、魔法の切り札から、一枚のうすっぺらな戯言
(たわごと)へと失墜するのである。丈(たけ)の低い恋の現実が此処にある。

 だから、「女は否定すべきもの」なのだ。
 女は、自分の方から追いかけ廻さなくても、向うからやって来るものなのだ。但し、それには条件が付く。
 それは金や地位、年齢や容貌はあくまでも、二義的なものであって、女に接する時は、喩えば、夜行列車の機関車が、一晩中、客車を引っ張るように、この懸命な努力を怠らない時に限るという事である。この力強さと、努力に、女は心を寄せるのである。
 つまり、男の下半身は、人格論などで語れない存在であると言うことだ。
 男の、腰から下のは人格に属するものではなく、大自然に属するものなのである。人格以前と言うか、人格より、遥かに次元の高い、神聖域に属するものなのである。

 一部の性医学者などは、男の下半身の人格論を云々するが、果たしてこうした論に対し、女の方は一体どう考えているだろうか。こうした学者の論は、女を納得させるだけの説得力があるだろうか。
 否、女は全身が生殖器であるから、男の下半身を女が考える時、やはりそこには人格以前の問題が浮上するだろう。もっと格の高いものだろう。
 しかし多くの男は、これを知らないから、屡々
(しばしば)、どえらい間違いをするのである。

 また、「男の甲斐性」で問題になるのは、女の歓びそうなモノを、自分が持っているということが必須条件である。努力によって、それを鍛えているということである。女と言うのもは、実に動物的なところがあるからだ。また、こうした男に、女は弱いのである。
 だが、女の歓びそうなモノだけを持っていれば、それでいいのかということになる。
 また、こうしたモノを持っているのは、男全体の中で、そうざらにはいないであろう。

 昔から、俥夫
(しゃふ)や馬丁(ばてい)の類(たぐい)が良いと、一部で噂された。
 これは下半身の人格論に対し、女の動物的で、率直な意見からすれば、女は下層階級の筋肉隆々の肉体を誇示する、肉体労働者風の男に犯されたいと言う願望がある。それは、下層階級の方が、気取らずに、すくすくと育った、逞
(たくま)しさに圧倒されるからである。

 昔から、女を選ぶ場合、「上淫下淫
(じょういんかいん)」という言葉があった。
 上淫の第一人者は、日本の歴史から言って豊臣秀吉であろう。秀吉は、尾張中村在の水呑百姓の小倅
(こせがれ)から身を起した人物である。父親は木下弥右衛門と称したが、軽輩であり、所詮は百姓であった。

 秀吉は十五歳にして、松下之綱
(ゆきつな)の下男となり、後に織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉と名乗り、本能寺の変後、明智光秀を滅ぼし、四国・北国・九州・関東・奥羽を平定して天下を統一する。そして遂に、位人臣くらいじんしん/仕えて働く者として最高の位につく意)を極め、信長の妹・お市の方の生んだ淀君を愛妾にする。淀君は、秀吉から見て、浅井長政の娘であり、名門の出と言うことになる。
 秀吉の女関係を見てみると、だいたいにおいて、彼の対象は上流階級の女が多かった。
 その理由は、恐らく自分が下層階級の出であり、こうした意識が強かったからであろう。それは、天正十一年の大坂城築城に見ることが出来る。大坂城こそ、成り上がり者の威信を賭
(か)けた自己表現であった。そして築城と共に、上流階級の女達を悉く征服したいと言う、欲望が絡んでいたのである。これが秀吉の上淫の第一人者と謂われる所以である。

 一方、これと対照的なのが徳川家康であった。
 家康の愛妾たちは、政略的な目的の他に、多くは、悉々くが下賎
(げせん)の女たちを相手にしていることである。それは家康自信が、下賎の女の方が、「味がよい」ということを知っていたためである。
 したがって、家康の方が、女に関しては、一枚も二枚も、秀吉に比べれば人間が上で、ベテランだったと言うことになる。

 それは、家康が、単に姿形だけの容姿端麗を相手にしなかったと言うことになる。つまり、彼は面食いでないのだ。
 体格のよい百姓女とか、泥臭い、名も無き女が好きだった。徳川二百六十五年の基礎は、案外家康のこうした処にあったのかも知れない。そして要するに、面食いでなかったと言うことは、やはり家康が、女に対しては秀吉よりも、一枚も二枚も上であり、ベテランであったと言えるのではあるまいか。

 「天は二物
(にぐつ)を与えず」という。
 したがって美男に、自分のモノが立派な男は居ない。ハンサムで背が高くとも、モノは粗チンが多く、疲れ気味で勢いがない。また、相撲取のように立派な体躯をしていても、モノは股間の内襞
(うちひだ)に納まる、小さくて、コンパクトなモノしか、持ち合わせて居ない。
 よって醜男でも、自分の容貌を気にする事はない。美醜を競う役者でない限り、容貌は無用なのだ。
 そこで、必要になって来るものが、自分の所有する「モノ」ということになる。「如意棒」の立派さの有無がとわれる。
 モノの、良いモノをぶら下げている者は、クライマックスの時、女を良い顔にする事が出来る。女の顔を、まるで牡丹のような顔にさせ、髪の毛の先まで、痺
(しび)れさせることができるのだ。

 上流階級で育った女や、インテリ階級の女は、自分が仮面を被っている癖に、普段は愛欲や性交は穢
(けが)わらしいものと決め付けている。性的には、彼女達の育った過程の中で、性に対する大きな誤解がある。性的には、非常に誤った考えを持っている。

 だが、こうした階級の女も、一度、本物の男に出会うと、ただの生物学上のメスになる。全身が生殖器であると言う姿を、正直に顕わす。この意味で、男の甲斐性として、強力な“お不動さま”の威力を見せ付け、気取った上席から、末席に引き摺
(ず)り降ろし、ただのメスにしてやることも、大事な、男の甲斐性となる。
 これは人間の尊厳と、種族繁栄の本能を正しく理解させる為に、非常に必要なことなのである。
 しかし、一度、こうした尊厳な性本能に目覚めさせると、上流階級もヘチマもなくなる。この階級の女には、男がタジタジするような、物凄さがある。上淫の方が、目覚めるのが早く、人間の声とは思えないような声を上げ、むしゃぶりついてくるのである。

 ここに現象人間界の男女の縮図がある。
 結局、俥夫
(しゃふ)・馬丁(ばてい)の野性味を好む女、そして下淫という階層の女を好んだ家康以来の男達も、このいずれにおいても、下の下の相手を求めたことになる。
 また、家康が上淫を求めた動機もこれと対照的であり、ランクは上にあっても、結局は「淫
(みだ)ら」でしかなかったのである。しかし、「淫ら」こそが、本当の男女の真の姿ではあるまいか。
 こうした人間としての姿があるからこそ、人は悩み、苦しみ、迷い、そしてその中で、揉
(も)まれ、抵抗を感じ、更には洗われるからこそ、こうした経験多体験を積んで、人としての人生を全うするのである。
 だからこそ、これを素直な目で凝視すれば、人間はまさに、愛欲や肉欲の中の現象人間界で、人としての経験を積み重ね、その生涯を通じて、修行をさせられていると言えるであろう。
 そして『理趣経』曰
(いわ)く、「セックスは大らかに楽しむべし」と言えるのではあるまいか。


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