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理趣経的密教房中術・プロローグ
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夜の宗教・真言立川流
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理趣経的密教房中術 13

衆生とは、生きとし生けるものの、一切の生物を指す。一切の人類や動物こそ、衆生の顕われである。また、生きとし生けるものは、六道(りくどう)を輪廻(りんね)する存在である。だからこの世界の別名を「有情(うじょう)」ともいう。この有情の世界こそ、人の住む人間界である。
 衆生の住む世界は、愛憎の心に満たされている。この愛憎の中から人は生まれて来る。
 慈悲の世界は、仏や菩薩が衆生を憐
(あわ)れみ、また、慈しむ心を指す。一説に、衆生に楽を与えること(与楽)を『慈』、苦を除くこと(抜苦)を『悲』という。
 特に、大乗仏教において、智慧
(ちえ)と並べて重視される事柄である。
 人間の人生は、この「慈悲」の中に包含され、現象人間界では、このステージに於いて、「苦しみ」「悩み」「迷い」が派生し、その中に人は人生を経験するように作られている。


●日光強化術と回光修法

 男性諸君の中には掌(てのひら)の摩擦くらいで、性力改善が出来ない重症患者もいることであろう。また恐妻家の多くは、重傷患者である。
 仮性包茎や半勃起、完全不能者の御仁
(ごじん)は掌で撫(な)でたりすることぐらいでは、効き目も薄いであろう。密教房中術には「日光強化術」なる最高の修法がある。
 そこで重傷患者にお薦めしたい秘法が、房中術の粋
(すい)を極めた「日光強化術」である。
 この強化術は、簡単に言えば、自らの“守護神さま”の化身
(けしん)である、不動明王や愛染明王を、日天にってん/密教で、仏法守護の十二天の一つに数えられる)から御利益(ごりやく)を頂き、この御利益によって改善すると言う秘法である。日天は太陽の化身(けしん)である。
 この秘法を行うには、その観想
(かんそう)として真昼に、太陽の光の差し込む窓際か、野原に出て、ごろりとひっくり返り、仰向けになって、自分の性器と会陰部を堂々と太陽光線に曝(さら)せば良いのである。そしてこの秘法を行う際には、もう一つ行わねばならぬ秘法があり、これを「回光修法(えこうしゅほう)」という。

 回光修法を行うには正しい逆腹式呼吸を極めていなければならず、この呼吸法を行いながら、日天の御利益を得る秘密の性力強化術が行われるのである。
 但し、注意しなければなら無い事は、「隠行法
(おんぎょうほう)」を正しく理解し、これを修得していなければならないことだ。自分の性器を確実に浄(きよ)め、精神を充分に鍛練していないと、低俗な性欲ばかりが強くなり、卑猥(ひわい)な欲情に悩まされることになるので、こうした性欲で、性交に及び孕(はら)んだ場合、その害は子孫にまで及ぶとされている。

 清らかな心をもって、性器を日天と結ぶ事が大事であり、心を無垢
(むく)にして、日天と結ぶ際の念唱する呪文は、

オン・アニチヤヤ・ソワカ 

 または、

オン・ア・ソワカ

 である。
 この秘法を、「日待祈祷
(にったい‐きとう)」あるは「日想観(にっそう‐かん)」という。これを行うと、日に日に性力が強まってくる。萎(なえ)えてしまった、久しく完全勃起することがなかった性器も、日に日にかつての力を取り戻し、陰圧が低下して来るのである。
 また、女性の毛が薄い人や、陰圧が高過ぎて陰性が強かった人も、日天の力を得て、陰陽のバランスが平衡を保つ事が出来、本来の女性の姿に立ち返るのである。
 女性の場合、陰圧が正常に落ち着き、陰陽のバランスが取れていれば、恥じらいをともなった初々
(ういうい)しさが蘇(よみがえ)り、本来優しい姿を示すものである。

「逸題大錦」より。女性は本来、優しいものなのである。
 女性を恐妻にするのは、男の責任である。男が房中術に無知であったり、早漏、遅漏、包茎、仮性包茎、半勃起、完全不能であったりすると、女は夜叉(やしゃ)に急変し、恐妻となるのである。
 そして恐妻は、男の無知によってつくられるのである。


●性呼吸の修法

 さて、ここで呼吸法について再度記しておかなければならないことがある。
 人間の呼吸は、陰と陽の精神作業である。この作業は常に拮抗
(きっこう)が取れていなければならない。そして「呼吸の根本」には、太陽があると言うことを知らねばならない。
 太陽の熱と光は、地上のあらゆる穴を開かせ、精気を送り込む重要な役割をしている。
 したがって生物はみな、太陽に向かって、穴を開き、精気を吸うのである。人間も全身の多くの穴を持っており、皮膚の毛穴から、鼻の穴、耳の穴、肛門の穴までを開き、太陽の精気を受けて燃え、燃焼した燃えカスを捨てて生長を続けているのである。

 太陽は、日天あるいは日精摩尼
(にっせい‐まだ)、更には大日如来の化身(けしん)であり、その他いろいろな名で呼ばれている。太陽こそ、古代から現代に至るまで、あらゆる宗教の中心本尊になり得た。
 日天の光を受け、太陽の放つ陽気を吸って輝く月は、密教では、月光菩薩
(がっこう‐ぼさつ)と呼ばれたり、月天摩尼(がってん‐まだ)と呼ばれている。また、多くの腕を持つ形の千手観音(せんじゅ‐かんのん)の、四十本の手は、日天・月天から発する様々な光線を顕わしたもので、仏法の有り難さを誰にでも解り易く説いたものである。

 人間が行う呼吸とは、自己の肉体を一つの小宇宙と見立て、此処に回光運行する太陽と月を顕わし、日光と月光の肉体化を顕わしたものである。したがって、このように想念すれば、自らの肉体は大宇宙と同じ、小宇宙の体形を為
(な)すのである。そして人体とは、まさに宇宙であり、この宇宙の中で宇宙意識が生まれるのである。
 宇宙意識がなければ、そんなに大きな息を吹い、あるいは大きな息を吐き、単に深呼吸を繰り返しても、殆どそれは意味のない呼吸に過ぎないのである。
 真の呼吸とは、丹田呼吸
(逆腹式呼吸)であり、また腹式呼吸なのである。これこそが、「真呼吸(しん‐こきゅう)」といわれるものである。



●邪気や外邪を祓う破魔法

 宇宙空間と言う、この空間には多くの邪気
(じゃき)や外邪(がいじゃ)が存在する。
 善なるものと悪なるものが、同居するこの世界こそ、宇宙そのものなのである。また現象人間界も、善なるものと悪なるものが同居する空間であり、悪なるものの中には、邪気
(じゃき)や外邪(がいじゃ)をはじめ、人間の落した唸(ねん)である生霊(いきりょう)や死霊(しりょう)が屯(たむろ)しており、それ等は不成仏霊となり、またその他にも低級霊や動物霊もうようよしている空間なのである。

 当然交会の際にも、これ等の不浄なものは姿を顕わす。ただ、修行をしていない人間の目にはこれ等が見えないだけである。
 したがって、こうした不浄の空間では、「真呼吸」を行えば行う程、体調に異常を来し、また精神障害が発生するのである。こうした邪気や外邪を祓
(はま)う為に、破魔法が必要なのである。
 そもそも低級霊や不成仏霊は、この世に未練を引き摺った物解りの悪い意識体であり、淫らな事、卑猥な事が好きな意識体である。したがって、男女が淫らな気持ちを持って性交を始めれば、どうしてもその近くに遣
(や)って来て、かつて達成されなかった欲望を充(み)たそうとする。

 あるいは男が射精する刹那
(せつな)に、射精された精虫の一匹に成り変わろうとする。万一こうした唸が、精虫の中に潜り込み、女性の胎内で受胎した胎児ができれば、その子は犯罪者か精神異常者であろう。世の中の社会不適合と言われる、災いを為す人間が生まれるのは、こうした破魔法を知らない男女が交わり、その得に受胎した子供が原因をしているのである。これを「血」というのである。だからこそ、「破魔法」が必要なのである。

 さて、呼吸法の基本は、陽気を吸い、精気を強化する為に行われるものである。そして「精」の強化を望むなら、吾
(わ)が身は、北に位置して座し、南を向く事が肝心である。この状態に吾が身を向け、その後に「破魔息(はま‐そく)」を行うのである。
 破魔息は、第一法として、まず、鼻腔から一気に、強く重たく息を吐き出し、体内にある邪気魔風
(じゃき‐まふう)を体外に駆逐(くちく)することである。この時、これまで吸い込んでいた息を、風音がするくらい、激しく、急速に吐き出すのである。この時、腹部はへこみ、横隔膜(おうかくまく)が上に上がって活動を開始する。横隔膜を呼吸の吐納(とのう)で上下させることである。これが腹式呼吸と言われる、一般的な深呼吸である。

 次に、第二法があり、まず、口腔
(こうくう)から一気に、強く重たく息を吐き出し、体内にある邪気魔風(じゃき‐まふう)を悉(ことごと)く吐き出すのである、吐き出しかたは第一法と同じである。体内にある、あらゆる邪気を吐き出すイメージで吐き出すのである。
 第二法が第一法と異なるところは、悉く吐き出し、直ぐに息を吸い込まない事である。我慢出来る範囲まで息を止め、苦しくなる寸前に、今度は鼻から静かにゆっくりと、頭の後頭部に息が貫
(ぬ)けるようなイメージで、軽く、軽く吸い込むのである。
 この時、一気に吸い込んではならない。どこまでも静かに軽く、ゆっくりを吸い込む事が肝心である。そして充分に吸い込んだら、それを直ぐに吐き出さず、我慢出来るところまで我慢し、苦しくなる寸前で、口から重たく、ゆっくりと静かに吐き出すのである。吐き終わったら、最初と同じように直ぐに吸い込まず、我慢して、苦しくなる寸前で鼻腔
(びこう)から同じ要領で吸い込むのである。

 この場合の腹部の動きは、息を吐き出した状態の時に腹が膨らみ、息を吸い込んだ時に腹がへこむと言う、深呼吸とは逆の腹の動きをするのである。第一法より難しく、逆腹式呼吸になっている事に注目しなければならない。この呼吸を「真呼吸
(しん‐こきゅう)」といい、これこそが、まさに「破魔法」なのである。
 呼吸回数は、人により異なって構わないが、そので行う意識は、邪気や外邪が追放・駆逐できたという自覚があるまで行うのが良いであろう。



●交会の際に一時間以上粘れる脅威の三世法

 「破魔法」が充分に行えるようになったら、次に「三世法
(さんぜ‐ほう)」に入る。
 三世法とは、三つの次元を顕わす過去・現在・未来である。
 この呼吸法で行う三世法は、破魔法の第二法とほぼ同じであるが、吐納
(とのう)時間と、止める時間をできるだけ長く伸ばす修法を行う。吐納の合間に行う、「止める」という時間を設け、出来るだけ心臓に負担をかけない遣(や)り方で行うのが好ましい。

 最初から長く行おうとして、止める時間を長くしたり、吐納時間を長くする事は、心臓に負担をかけ、また心臓肥大症
(心筋梗塞状態)になるので、初心者は心臓強化の体質を充分に養ったから、長い時間を掛けて行うようにすれば良い。
 初心者では5秒程度が適当であり、慣れるに遵
(したが)い、また心臓強化の体質が充実してから、10秒、20秒、30秒と伸ばすのが良いであろう。最終的には45秒から60秒までに持っていける事が理想的であるが、初心者は心臓に負担がかかり過ぎ、好ましくない。

 ここで精神統一の為の静坐法を簡単に紹介する。
 姿勢は「静坐」
せいざ/足の拇指と拇指を重ねる指坐静座法。詳細はイラスト参照)がよく、患者も静坐させることが肝心であるが、できるだけリラックスした精神状態で、静粛(せいしゅく)にすることである。この時の姿勢は、腰骨の上に脊柱(せきちゅう)をしっかり垂直に立てるということが大事で、背骨が曲がらないようにする。くれぐれも脊柱の垂直を崩して、胡座あぐら/この姿勢は腰骨の位置より膝頭が上になってしまうので、長時間同じ姿勢を保つことができず、腰がだるくなって集中力が散漫する)等しないようにする。
 静坐法とは読んで字の如く、「静かに坐
(ざ)する」ことをいう。
 初心者がこの方法を行なう場合は、畳や板張りに直接坐るよりも、座布団か布団の上に坐り、足が極端に痺
(しび)れないようにする。両手は静かに腰の前に持って来て、背骨を腰骨の上に垂直に立て、姿勢を正す。そして動悸(どうき)が静まるまで呼吸法を行ないます。

 呼吸法を行う際は、必ず吐納
(とのう)の「吐気」から始め、次に「納気」を行なう。吐気は吐く息で、呼気は吸う息である。吐く時は重たく、口から吐き出す。また吸う時は、鼻から軽く吸い込み、頭の後頭部に納気が突き抜けていくような、軽く、軽くのイメージで吸い込む。こうした状態を繰り返しながら、吐納の周期を段々長くもっていき、最初は5秒程度から始め、段々と長くしていく。

 例えば、5秒吐いて、次に5秒止め、次に5秒吸い込み、更に、5秒止めると言うサイクルを段々長くしていく。秒数は自分の心の中で数えることだ。
 呼吸法の目安は、5秒〜15秒くらいが理想で、絶対に30秒以上を超えるような長い呼吸は、酸過多状態になって危険を伴う。頭が重たくなるのである。かつてはこれを「禅病」
【註】禅宗の僧侶がこの病気に罹り易く、かつて白隠禅師(はくいん‐ぜんじ)はこの病気に罹り、これを治す為に白河山中の仙人の力を借りて治したと言う記録が残っている)と称した。したがって長い呼吸は厳禁である。

精神統一の静坐法

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 また、呼吸法を行う際の想念だが、まず「こだわりを捨てる」ということである。
 こだわりを捨てなければ、それは何事かに執着する心となる。こうした心は穏やかではない。いつも、心の何処かに波立ったものがあるのである。こうした波立ちは、心の平静を乱すばかりでなく、執着心の固まりとなって、我執
(がしゅう)ばかりが強くなり、正しく魂を動かせないのである。

 人間には、一つの行為を為
(な)そうとする時、その反対の想念が必ず起って来る。一つの魂の中に、二つのものが同時に存在しては、精神統一もままならないのである。これは日常茶飯事に起っている行為を振り返ってみれば明白となろう。
 例えば、喜びの後には悲しみが、楽しみの後には苦しみが存在し、人間は、二つのものを同時に経験できないように造られている。
 したがって、精神統一の静坐法も、単に呼吸の吐納を行うだけではなく、精神統一が非常に難しいことであると言うことが分かる。したがって、基本をしっかりとマスターし、下手な精神統一は行わないことである。

 世の中に、精神統一の方法はいろいろとある。坐禅、瞑想法、呼吸法、ヨーガ、心身統一法など、諸派や分派を数えれば、かなりの数に上るだろう。これらの目的は、私たちに新たな世界を見せてくれる回路を開くことを目的にしているが、どれもこれも、非常に難しい行法である。
 更にこれ等の行法には、霊的な接触が起る為に、揺れ動く心でこれ等を行うと、直ぐに邪気や外邪に犯され、憑衣される危険があるということである。このことだけは、充分に熟知しておく必要がある。

 では、揺れ動く心で精神統一の真似事を遣
(や)り、その後、交会(こうえ)に及べばどうなるか。
 憑霊現象に襲われる可能性が大きいということである。
 例えば、焦点を合わせる為にレンズがあり、このレンズは揺れ動く心の中で用いても、決して正しく焦点を結ぶ事は出来ない。また、心と言うものは、心の精神統一が完成に近づくにつれ、霊的なものと深く関わって来る。この事だけは把握しておくべきである。

 精神統一は、静坐をし、脊柱
(せきちゅう)を腰骨の上に垂直に立てることであるが、この姿勢を長時間保だけでも難しい。脚(あし)も痺(しび)れ、痺れは深まるに連(つ)れ、心は揺らぎ出すものである。
 また、規則正しく腹式呼吸や逆腹式呼吸を行っていても、心が揺らげば、その規則性は失われ、乱れたものになってしまう。この乱れは霊的波調までもを乱してしまうのである。そして、この場合に注意しなければならないことは、揺らぐ心に、雑念が起り、霊的波調を乱したこの隙
(すき)に、低級な雑念が発生し、低級霊に取り憑(つ)かれるということである。
 それは、精神統一をしている人に対し、その人に関係のある霊魂からの送られて来る想念だと検
(み)て間違いないのである。こうした揺らぐ心で、心の正しい姿をねじ曲げ、この歪(いびつ)性は、やがて体調を崩し、夜は眠れなくなり、運勢が降下する現実を招くのである。

 さて交会
(こうえ)も、一つの精神統一が為さらなければならない。心が乱れていは、男根も女根も正しく機能しない。何(いず)れかが、狂っていても駄目である。心の揺らぐ男が、正常な女性に接しても、そは凶事を招くであろうし、男が正しい精神統一が出来ても、女性の方に、邪(よこしま)な邪念があれば、交会を及ぶ事により運気を下げ、凶事を招くことになる。

 余談だが、腹上死という無態
(ぶざま)な男の死に方がある。これは精神統一の失敗から起る、過去世(かこぜ)での因縁が吹き出したものだ。これは色情男が、歳をとっても色情の因縁から解放されず、性交中に女の腹の上で死ぬ無態な死に方である。
 一般に知られるのは、富豪らが金にものを言わせて若い女を妾
(めかけ)にし、妾宅で死亡すると言う無態な死に方である。これも富豪男の美食などの食べ過ぎと、心臓肥大症から来るもので、心臓肥大症とは心筋梗塞(しんきんこうそく)のことである。性交に及んだまま心臓が停止し、涎(よだれ)を垂らして、にたついた顔で死んで行くのである。こういう無態な恰好で最後を終えると言う、人生である。

 欲にほだてられて、成金家として名誉や財産を掴み、高い地位に上り詰めた人間程、これまで寄り添っていた高級霊は去る事になり、低級霊ばかりが忍び寄って来るので、「腹上死」などという無態な死に方が発生するのである。これまはさに、自分の描いた想念の中の、地獄に直行する行為なのだ。死に至る、死に方も非常に苦しいものであろう。
 心臓障害で死ぬ場合、冠状動脈の閉塞または急激な血流減少により、心筋に変性・壊死
(えし)を起す疾患である。冠状動脈硬化による狭窄(きょうさ)部に、血栓・塞栓・攣縮などが加わり閉塞を起すことにより生ずる症状がこれであり、壮年以後に多く、急に劇しい胸痛を感じ、悪心・嘔吐・顔面蒼白・血圧降下を起し、ショック状態となり、そのまま精液の垂れ流しと共に死亡するのである。
 こうした死亡は、密教房中術を知っていれば、腹上死などという無態な事故はないであろうが、これを知らぬが為に哀れな死に方をしなければならないのである。

 さて、再び話を三世法に戻そう。
 三世法はまず、息を吐き出すのであるが、この間に過去、現在、未来、また先祖、自分、孫という時間の変化を同時の観
(かん)じつつ行い呼吸法である。自分がこの世にいると言うことは先祖のお陰であり、先祖が優秀であったから、今日の自分が居るのだと言う現実を把握することである。

自己保身と守護霊の子孫伝承


 六代前に振り返って、いま自分が居ると言う事は、自分の前に、合計126人の先祖が居なければならず、このうちの一人でも欠ければ、今の自分はこの世に居ない事になる。それだけ優秀な先祖が居た事になる。

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 三代前を振り変えれば、自分から見て、一代前には父母の2人が居り、二代前までには祖父母の4人が必要であり、三代前までの曾祖父母になると8人が必要であり、自分が今日この世にいる為には合計で14人の先祖がいなければ自分は生まれて来ないことになる。そしてこのうち、一人でも欠ければ、自分と言う現在の人間は、この世に存在しないのである。
 したがって、三代前までも見ても、この先祖達が生命体として如何に優秀な存在であったか、その優秀性が明白となろう。

 更に、六代前までを振り変えれば、合計で126人の先祖が居なければならないことになる。そして先祖の全員は、総
(すべ)て非常に優秀な生命体として、時代を送り、怪我や病気で簡単に死ぬこともなく、また戦争や事故にも生き残り、子孫繁栄の為に努力して来たと言うことが分かるのである。
 こうした過去の先祖を観じつつ、「自分と何か」と言うことを考えて、この自分が更に未来の子孫を観じ、過去・現在・未来という時間の変化の中に、自分が如何されて来たと言う感謝の気持ちを通わせなければならない。そして三世法は、感謝の中に現実があり、感謝することによって三世法の修法は達成されるのである。

 また、この修法に熟練しておくと、房中術の奥儀である「 接して洩らさず」という儀法
(ぎほう)が楽にこなせるようになるのである。
 睾丸の中で造られた男子の清水は、三世法に例えるならば、先祖から引き継いだ様々な因子を含む「過去」であり、射精の瞬間を待つ精液は「現在」であり、射精とともに放たれた後に精液が「未来」なのである。そして、放たれた後、女体に根を張る吾
(わ)が身の分身は「未来の子孫」ということが言えるのである。

 三世法と真呼吸が異なる点は、そのイメージに於てである。肉体的な呼吸を繰り返すだけでなく、三世を観じることが三世法の特長なのである。
 過去としての精液を、射精の瞬間を待つ精嚢中の精液に置き、これを現在として「今」を観じるのである。精嚢中の精液こそ、「現在」であり、この時に、呼吸を止めるように抑えるのである。
 この場合は、呼吸を10秒、20秒、30秒と止めても、三世法に通じていれば心臓には決して負担は掛けないものである。そして、大満足の時である、「未来」、すなわち、射精を迎えれば良いのである。



●勃起力を維持する呼吸法

 「 接して洩らさず」の房中術の実践思想は、三世法の「中有
(ちゅうう)の思想」である。
 陽気を吸い込み、息を止め、次に陰気を吐き出す。
 この陰と陽の中間にあって、射精前の男と同じように、陰でもない、陽でもないというのが、則
(すなわ)ち、「中有」である。

 大気から吸い込んだ精気は、息を止める事により、その間に、密教では「魂
(こん)」と「魄(はく)」に分かれるとされている。魂は「陽」となり、魄は「陰」となるのである。
 そして、人間の生命こそ、息の長い、生きながらにして「三世法」を実践し、「 接して洩らさず」を無意識のうちに行っているのである。
 この世に生まれたと言うことは、宇宙の精気の「陽」を吸ったと同じことになる。これにより、「陽の火」が燃えはじめるのである。
 中有には六つの状態と、三つの経験があるとされる。一方、「死」に対しても、生の六つの状態と、三つの経験がある。
 それは「人」の存在は、天地の相応ずるものだからである。
 『霊枢
(れいすう)』には、天地の陰陽が体内に顕われ、これが手に太陽小腸経(たいよう‐しょうちょう‐けい)、少陽三焦経(しょうよう‐さんしょう‐けい)、陽明大腸経(ようめい‐だいちょう‐けい)、太陰肺経(たいいん‐はい‐けい)、少陰心経(しょういん‐しん‐けい)、厥陰心包経(けついん‐しんぼう‐けい)、また足には、太陽膀胱経(たいよう‐ぼうこう‐けい)、少陽胆経(しょうよう‐たん‐けい)、陽明胃経(ようめ‐い‐けい)、太陰脾経(たいいん‐ひ‐けい)、少陰腎経(しょういん‐じん‐けい)、厥陰肝経(けついん‐かん‐けい)の三陰三陽が説かれているからである。

 三つの中有
(バルド)の経験として、先ず第一に「死の瞬間の中有」、第二に「現実を経験している中有」、第三に「再誕生を求めている間の中有」である。そしてこの三つの中有は、生とは逆のプロセスによって行われるのである。
 三つの中有について『霊枢』は、三焦
(さんしょう)を挙げ、第一は「上焦」で、横隔膜より上を指し、第二は「中焦」で、横隔膜から脾経の神闕(しんけつ)までを指し、第三は「下焦」で、臍下(へそした)から会陰(えいん)までの三つを説いている。
 つまりこれは、誕生のプロセスを「焦
(しょう)」と言い、これは「火を焦(こが)がす」という意味である。オギャーと生まれ出て、呼吸をし、臍(へそ)の緒を切って生長し、下焦で大小便をするのが人間誕生のプロセスであり、死はその逆が行われる。

 少し話は反
(そ)れるが、「自然死」で死んで行く人間の、「死のプロセス」を挙げてみよう。自然死の場合は、まず下焦の会陰が閉じられ、生命力は中焦の神闕を通って、上焦の泥丸でいがん/ここはブラフマの開き口であり、百会(ひゃくえ)もしくは通天(つうてん)という経穴部である)の蓋(ふた)が開けられ、そこから陽の魂が体外へと出るのである。
 人間の生命を振り変えれば、誕生は生命力の焦げはじめることを顕わす。また、人の死は、生命の火が消えることを顕わす。
 精液と言う清水から生じた人の生命は、焦げ尽きる時、「末期
(まつご)の水」を必要とするのである。それは人間の生命が、中有→水(精液)→焦→末期の水→中有というプロセスを繰り返すからである。

三焦の図

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 このプロセスから分かることは、人の死とは、「業
(ごう)」の定めによって、まず鬼神(きしん)を司っていた肉体霊が去り、ついでに「魔」という精神霊が断たれ、その生命力は泥丸の蓋(ふた)が開いて、そこから中有の世界へ戻って行くことを言うのである。
 したがって、自然死ではなく、横死やそれに準ずる事故死をした場合、頭の天辺の泥丸の蓋は開かず、脱魂が行われる場合、その総気は、肛門部分の会陰が開き、そこから体外へと抜け出して行く。したがってこうした形で脱魂が行われた場合、地縛
(じばく)霊などの不成仏霊となり、戻るところに戻れず、地獄の下降に沈み、迷うのである。

会陰部の図

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 また、性交中の突然死は「横死」という最悪の死に方であり、これに家族や親族が行う念仏宗の念仏
(念仏宗の阿弥陀仏に帰命し、極楽に往生できるという「南無阿弥陀仏」は、下降する六字の名号である)が加われば、更に下降して沈み、悪霊となって霊統的に一番近い者を悩ませる。

 一方、自然死の場合は、まず下焦の会陰が閉じられ、体内に残っていた生命力は、中焦の神闕を通り、上焦に至り、この時に泥丸の蓋が開き、そこから体外へと総気が出て行くのである。こうした総気の脱魂こそ正常であり、生気霊となって成仏出来るのである。

泥丸部の図

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 正常の死の場合、呼気
(肺経)が終ったとき、生命力は智慧(ちえ)の宿る中枢神経(心経)の中で沈んで行く。またその時、物事を識(し)る心(心包経)は、自然な状態で覚醒しつつ経験を積んで行くことになる。
 この覚醒への導きは、生命力が臍部分の中枢神経である「神闕
(しんけつ)」を横切り、会陰の開く口が閉じられ【註】横死や事故死の場合は、此処が閉じられずに開いたままになり、此処から脱魂が行われる)、督脈の尾閭(びろう)に至り、そのまま上昇して命門(めいもん)へと走り込んで、更に上へと上昇し、大椎(だいつい)と玉枕(ぎょくちん)を経由して泥丸(でいがん)に至るのである。そして泥丸に至れば、そこのブラフマは自然に開かれ、外へ総気が出るのである。

 人間がこの世に生まれると言う現象は、「宇宙の陽気」を吸うことである。そして、生長した肉体は、呼吸法を正しく身に付けて、吸った息を直ぐに吐き出さずに、肉体内に溜(た)めておく状態を、「寿命」とか「生命」と名付けたのである。
 また、陽気を吐き出してしまい、陰となった肉体は、生物界では「死」と呼ぶのである。
 陽気を肉体内に止め、蓄えて生きることの意味は、生命こそ、宇宙の実相であることの証明にある。
 生命をつくり出す宇宙のメカニズムが「空」であり、これが真実であるならば、その逆に、生命の死が「仮」でなければならない。そして生きている生命は、その中間を「中有」と名付けた意味は、それが真の実体でなければならないからである。

 人生を支える肉体は、勃起する男根と同じである。息長く、悠々
(ゆうゆう)たる呼吸をする者の男根が、浅い呼吸の男より、優れていて、然(しか)も長時間に及び性交を続けられると言う特徴を持っている。これは長時間、享楽を貪るということではなく、陽を深く、体内に取り込めると言う事であり、これこそがいつまでも元気で、長寿を保つ秘訣なのである。
 そして「長寿」とは、宇宙から吸い込んだ陽の魂のお陰なのである。
 密教房中術では、宇宙から吸い込んだ「魂
(こん)」のことを「男のタマシイ」と呼び、「魄(はく)」のことを「女のタマシイ」と呼んで、この両方が合体することで、生命は磨かれ、洗われ、清らかになって、これこそが『理趣経』で説く、「愛は清らかなものである」という言葉に回帰されるのである。



●宇宙の精気を吸う風行秘仏

 呼吸法の極意に「風行秘仏
(ふうぎょうひぶつ)」なるものがある。
 この秘仏は、「日月礼念法」に続く秘伝で、これまでは密教僧でも知る事のなかった深秘の秘術である。

 「風行秘仏」の「風」は、五大の一つを顕わしている。つまり、繰り返し説いて来た、地・水・火・風・空の五つをいう。この五大は、一切の物質に遍在して、それを構成する基とみて、これを「大」という。
 地・水・火・風・空の五大を顕わす五輪は人の体躯である。そして、これこそ五大明王なのである。
 また、五大の「風」は、呼吸を顕わしている。この呼吸こそ、男女の性器を風行如来
(ふうぎょうにょらい)と観じ、男根は女根から陰気の精気を吸い込み、女根は男根から陽の精気を吸うのである。男と雖(いえど)も、陽気ばかりが充満していては、日射病に罹(かか)り、女性と雖も、陰ばかりでは寒さで凍死してしまう。したがって、お互いのバランスが必要であり、陰陽の拮抗(きっこう)が取れて、それは「中庸(ちゅうよう)」を為(な)していなければならない。

 密教房中術における陰陽の拮抗は、まず、男が女根を開き、唇を近付け、女体から陰の精気を吸い込まなければならない。また、女性は男根を起立させて、唇を近付け、その状態から陽の熱気を吸い込まなければならない。

 女根は腔口を、男根は陰嚢
(いんのう)のある陰茎部から亀頭先端に掛けてである。
 その場合、陰茎に沿って、陽気を静かに吸い上げるのである。これは舌技でないから、この事を充分に把握して、唇を近付けるだけで、精気を吸い取る秘法を行わねばならない。
 つまり精気は「陽気」でもある。元気の根源である。
 陽気は絶頂状態に至らないと発生しない。
 単に排泄行為を目的とした異常性腺の刺戟状態では、陽気は奪えない。
 そこで異性の陽気を奪う術が必要となり、くれぐれも異常性腺刺戟から起こった濁気を吸ってはならない。
 特に濁気吸引の愚を犯す場合は、愛情の伴わない娼婦を抱くような感覚で異性に接した場合に、この過ちを招く。紛れもなく「凶」である。
 正しくは、陽気は燃え上がった絶頂感の尖端
(せんたん)に存在する。
 その身体的反応は、相手が絶頂感に至ると、ヒクヒクするような動きが起こり出す。この状態に至らせて男は一気に陰茎で尖端に存在する陽気を吸い上げてしまうのである。
 吸い上げたか否かは、陰茎自体のヒクヒクする感覚で自得出来る。

 こうして精気を吸い上げ、性力を強める真言は、

縛也吠 莎訶(ばやべい・そわか)

 である。

 このように真言を念唱し、精気を吸えば、躰全体が軽くなり、行動が素早くなり、敏捷
(びんしょう)になると言われている。一方、こうした智慧を持たず、単に「並程度のセックス」に甘んじていると、結果的には、自分自身の向上に繋(つな)がらないので、こうした回数を重ねれば重ねるほど、精気は奪われ、陽が失われるのである。
 嫌々ながらの「並程度のセックス」は、回数を重ねる度に、腰が重くなって来ると言う現象を起こす。これは陽気が失われた為に、邪気が侵入して来たという事である。

 人間は、生まれながらにカルマを背負って、この世に生まれ出る。
 一方、人間の生まれ、カルマの解消が、そもそもの人生の目的となる。カルマの解消が行われ、それは小さくなれば、只管
(ひたすら)向上し、無限に神仏へと近付くであろう。

 逆に言えば、この世に生まれて来ると言うこと自体が、カルマ解消の役目を背負わされていると言うことになる。カルマを背負っていると言う事は、自分なら、自分が、霊的には「未浄化」であるということになる。したがって、未浄化な人間程、霊障を背負うのは当然であり、また、自分の周りに未浄化霊を集めて当然だ、と言うことになる。こうした視点に立てば、自分の未浄化な部分を修正する義務があると言うことになる。
 しかし、自他同根の意識が働かなければ、未浄化な低級霊を他人と扱ってしまい、これを排除しようとする心が起る。それは、結局は自分自身であるのだが、排除は自分の排除に繋がるのであるから、自分をも否定してしまうのである。
 世の中の多くの人々は、自分の否定に余念がない。したがって、自分の否定は性力を弱め、精気を浪費していると言う事に気付かない。不幸現象の根源は此処にある。



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