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理趣経的密教房中術・プロローグ
理趣経的密教房中術 1
理趣経的密教房中術 2
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夜の宗教・真言立川流
続・夜の宗教 真言立川流
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理趣経的密教房中術 11

富んだ人間は、天から才ならず財まで賦与され、大勢を救済する才と財がある。
 富貴の家に育った者は、物欲も権勢欲も人一倍強く、その強さは猛火のように烈しい。こう言う猛火に、少々水を掛けたくらいでは鎮火しそうにない。その火は人を灼き殺すかも知れない。そして自分まで灼き尽くす恐れがある。
 だが、この烈しさが底辺を苦しめる。

 これでは才と財を鼻に掛けて、弱い者の短所を論
(あげつら)っているだけである。
 心の傲慢は、その奢りが躰も顕われてくる。謙虚さを忘れると、五臓六腑のうち、特に五臓では脾臓を傷
(いた)め、六腑では小腸を痛めて体内の老廃物の蓄積化を残留させ、調整のため解毒機能が低下する。感情的には神経症であり、ヒステリーなどがそれである。これらにはコンプレックスも含まれる。この種の感情が早老現象を早める。

 房中術でいう「房」とは、閨房
(けいぼう)のことであり、此処は閨(ねや)とか寝室の意味である。そこでの房事をいう。つまり「閨房中の事」であり、性交であり、目合(まぐわい)を指す。
 この場合、女においては悪影響が及び、内性器にオ血
(古い血)が溜る。漢方でいう、血の流通に障害をきたした病態。不眠・嗜眠・精神不穏、顔面の発作的紅潮、筋痛・腰痛・月経障害などを示す。
 血液は内性器で停滞し、新鮮なプラナを含んだ血液が性器に流入するのを妨げるのである。心的には奢りなどの感情をいう。肉体の浄化調整が喪われるのである。これを正常に取り戻すには、閨房の調整法を行なわねばならない。

 人に九竅
(きゅうきょう)ありという。女の場合は十竅である。
 脾臓を傷めた女は、内性器ならびに脳で感じる感覚が不感症気味である。微温湯のような流動体の移動が、体内で殆ど感じないのである。微温湯のような感覚の流動体が侵入して来たという、湯に似た感覚の密度が伝導物として出入りする感覚が喪われるため、男女の互いの繋がりが皆無となってしまうのである。


●女は脳天で痺れる

 男女の絡み合い。目合……。
 男女が肉体的に交わる。これを「媾合
(こうごう)」という。または「まぐわい」という。

 男と女は、根本的にその二根の構造は異なっている。決して、男女の相違は、平等につくられていないことである。
 まず、男はセックス一辺倒につくられているのに対し、女はセックス一辺倒につくられていない。
 つまり女の感性は男の粗品と言うか、“粗チン”と言うか、そうした粗悪品に絶えうるようにつくられていないのである。これは人間的な構造と言うより、生理学的な構造である。

 更に、男女を年齢的に比較して、女性はベスト・コンディションに至る年齢は、だいたい25〜6歳頃から34〜5歳頃であり、これを過ぎると、中年期に差し掛かり、中年期を過ぎると、今まで番数で喜んでいた女性は、やがて量より質を求めるようになり、要するに修法を忠実に再現し、それを実行出来る男を尊ぶようになる。

喜多川月麿の「色の道独案内」

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 この時期が比較的長く、この長さは、やがてやってくる更年期と対照的である。そして更年期までに、男の質を求めるようになり、更には、更年期の末期には、二十歳の娘のような仕種
(しぐさ)をしはじめ、それに加えて極度な性的興奮を覚え、猛烈に要求する時代がやって来る。
 しかし、それは一時的な現象であり、結局は蝋燭
(ろうそく)が消えようとする時に、蝋燭の焔(ほのお)は最後に再び明るく瞬(またた)き始め刹那に烈(はげ)しく燃えて、そして消える。それと同じ現象なのである。性のクライマックスは、「尽きる」ことに全エネルギーを遣うようである。

 だが、この刹那を「ほどほど」と理解している場合は救われる。極楽一歩手前で引き返せる勇気のある者は救われる。
 救われない者はそれを最後まで注ぎ込んでしまうのである。そうなると最悪である。引き返せないからである。戻るの戻れる状態にあり、結局は「仕方なく」とか「已
(や)むを得ず」となってしまって肉体上の墓穴を掘る。精気を悉く浪費させるからである。

 その後、性力はガクンと落ちて、生理は止まり閉経に至って、セックスはその生涯を閉じる。そういう「打ち納め」の人生を歩いている殿方は少なくないようである。また、今日では女性も精力旺盛と言うか、マスコミで煽られているため「斯くあらねば……」と考えている女性もこの泥沼のジレンマに嵌まるようである。
 精力減退ならぬ、性欲変態なのである。時の誘導に捏造されて、狂った観がある。
 つまり性交における排卵によって、精子と出逢うと言う事がなくなるのである。
 こうした年齢による性感覚の移行を充分に踏まえていないと、亭主族は女房族を恐妻へと奔
(はし)らせ、自らも恐妻家となってしまうのである。



●恐妻家からの脱出

 夫が妻に頭の上がらない亭主の事を「恐妻家」と、侮蔑
(ぶべつ)を込めて世間ではいう。
 女の尻に敷かれ、亭主は全く頭が上がらず、その上に頭ごなしに罵倒
(ばとう)されたり、罵詈雑言(ばりぞうごん)をいわれれば、亭主は一体自分が何の為に生きているのか、全く分からなくなってしまうであろう。
 早朝、女房に家を追い出されるように職場に向かい、そこで一生懸命働き、複雑な人間関係も耐え忍び、疲れた躰
(かだら)を休める為に、再びわが家に舞い戻って来る。

 どんなに仕事が長引いても、夜遅くなっても、わが家に戻って来るこの習性は、やはり家庭に安らぎを需
(もと)めるからであろう。仕事上の厭(いや)なこと、人間関係の煩雑(わずらわ)しさ、人との付き合いの難しさ、上司との折り合いなどを含めて、これ等の難事に一時な避難場所として「家庭」というものがあり、その理解者として、よき伴侶の妻がいると言うのが、本来の夫婦関係であったはずである。
 また、こうした一種独特の安らぎを需め、人が婚姻すると言う行動を取るのではないか。
 婚姻の根本的な動機と理由は、此処にあるはずである。

 婚姻するとは「結婚する」ということである。男女が夫婦になることをいうことである。そしてそこで、一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした、社会的経済的結合が完成するのである。また、その間に生れた子供が嫡出子として認められる関係を夫婦は築き上げていかなければならないのである。男女はこの目的において婚姻に至る。

 これはただ民法上に定める、戸籍法に従って届け出た場合に成立するのでが、単に形式上のこれだけでは何の意味も持たないのである。むしろ婚姻そのものの内容により、婚姻後の夫婦生活そのものに重みがあるはずである。

 歴史上から検
(み)ても、恐妻家といわれた人物は実に多い。
 古くはソクラテスの女房も恐妻であったし、彼は世間から「悪妻」とまでいわれた自分の女房に大変苦慮している。扱い方を図りかねた。
 また、近現代では科学者
【註】日本ではノーベル賞受賞者で理論物理学者の湯川秀樹(1907〜1981)が恐妻家として有名)などの学識経験者や企業家にも、恐妻家は多く存在しているようだ。
 要するにこうした人物を検た場合、単なる専門馬鹿の人生を選択している人が少なくなく、結局、自分を知らない、偏り過ぎた偏執狂だったということになる。
 こうしたモノマニアは、どうしても恐妻家になってしまう恐れがあるのである。
 要するに「真物の女を知らない」からだ。あるいは人間研究の「女」と言う項目を安易に見逃し、扱い方の技術を怠ったからである。そしてそのままで女房から罵倒される人生を歩いた。それが真相であろう。

 亭主族は女房族の「上の口」と「下の口」の両方を満足させて、初めて亭主の威厳が備わるのである。その為には、よく働くことも大事であるが、それに偏り、両方の拮抗
(きっこう)を保てずにバランスを崩せば、自分の女房は忽(たちま)ち恐妻への道を選んでしまうのである。

 世間でいう、男の甲斐性
(かいしょう)とは、学識や経済力だけをいうのではなく、また女房以外に、外で女をつくり妾(めかけ)を持つことではない。こんなものは才覚でも何でもない。無駄な努力と言うものである。その上、恐妻家ならば、妻の恐怖に怯(おび)えなければならない。百害あって一利なしだ。

 何よりも、大事なことは、女という生き物を徹底的に知る必要がある。この研究を疎
(おろそ)かにすると、人生で大きな過失(しくじり)をやらかすのである。性生活において、女のベスト・コンディションは先にも述べた通り、25、6歳頃から34、5歳頃までである。この事実を徹底的に認識すべきである。女の人生の中では、この期間が一番長いとも言える。そしてこれを過ぎると、更年期がやって来る。更年期は末期を迎えて閉経が起り、それで終了するのである。この時期に、男である亭主諸君が、どれだけ精進努力を重ねたかに掛かるのである。

 また、女と男の構造の違いや、思考の違い、性格の違いを認識する必要がある。そして人間の「性格」というものは、男と女とでは全く違っているのである。
 昨今は日本もアメリカ並に離婚ブームが流行しているが、その離婚する理由が互いの「性格の不一致」を挙げて離婚する男女が少なくない。
 しかし男と女は元々同じ性格ではない。最初から“不一致”である。結婚後の始まったことでない。
 性格が違っているからこそ、結婚により、欠点を補うと言うのが結婚する根本的な動機であり、性格の似た者同士が婚姻すれば、その後の結婚生活は、お互いが自分を視
(み)ているようで、まさに地獄であろう。

 多くの男女が誤解していることは、性格と相性を同じように考えていることだ。
 人生を共に何かをしようとする時、自分にとって遣り易いかどうかの相手方の性質を、性格と判断して、これを大きく誤解し、あるいは混同させている事である。

 男女は縁で結ばれると言う。
 しかしその「縁」とは何かということを、明確に答えられる若い男女は少ない。
 また一口に婚姻関係といっても、それが何を意味するか、よく分からずに結婚する男女も少なくないようだ。悲劇は此処にあると言ってよいだろう。
 その意味では肉欲を結婚によって解消する関係で結ばれる男女も少なくなかろう。
 全く男女二根の真意を理解していないのである。相手の性器が目当てだった。
 しかし、こうした関係は直ぐに飽きが来る。
 「縁」の根本原理である原因を助けて、結果を生じさせる作用を理解していない為に、結果は最初から悲惨なものから始まることになる。
 よき伴侶としての理解力など最初からないのである。目当ては相手の“性器”だった。色と言う如何わしいものに酔っただけであった。酔いが醒めれば朽ち果てる。
 そして特に、亭主族の大きな考え違いは、女は理性だけで蹤
(つ)いて来ると勘違いしていることだ。

 幾ら理想に近いからと言って、経済的に豊かであるからと言って、これだけでは女は蹤いて来ない。
 女という生き物は、繰り返すが「上の口」と「下の口」の両方を満足させて、満足を覚える生き物なのである。「上の口」だけでも駄目であり、「下の口」だけでも駄目なのである。両方の口が同時に拮抗していなければならないのである。

 そして、経済的に安定していなければならないことは言うまでもないが、若い時は、少々欠乏状態にあり、貧乏を背負って、夫婦で共に坂道を登って行くと言う姿の方が、晩年になって大いに役に立つものである。それより大事なことは、男が女のベスト・コンディションの時期を把握することである。これが理解出来れば、亭主は男として、何に努力しなければならないか、自ずから見えて来るものがあるであろう。

 つまり「魔法の如意棒」が、自分にあるということを、よく理解しなければならない。
 これは男のアクセサリーではない。男の“守護神さま”なのだ。これを拝み、あるいは育まなければならないのである。その「育む」という行為の中には「鍛える」ということもあろうし、「慈しみ」「強く」「大きく」堂々とした業物
(わざもの)に変身させる義務も怠ってはなるまい。

 したがって「粗チン」は男の恥となる。「粗チン」は恐妻家をつくる。つまり、恐妻家は自らが「粗チン」の持ち主であるということを証明しているようなものである。だからこそ、自分の「魔法の如意棒」は、どこまでも見事な業物へと、鍛え直し、大切に育んで行く必要があるのである。
 女は、その生き物自体が、高度な教養や学識を所有していても、理性だけでは絶対に蹤いて来ない生き物である。結局、最終的には、金も理性もクソ喰らえと言う事になるのである。

 その理由は何か。
 簡単なことである。女という生き物は、全身が性感帯で構築されている生き物であるからだ。これが女のセックスの約90%を締めていると行っても過言ではない。女という生き物は、内でも外でも、一度男から十二分に、髪の毛まで痺
(しび)れさせてもらう思いをさせてもらうと、直ぐに男の奴隸になると言う事である。この要素は、女の全員が所有している。
 ところが男は自分でそうさせることが出来ないから、恐妻家になるのだ。
 好色度自体を挙げても、女の方が男より遥かに好色だし、いつの時代もこの根本は変わらないようである。
 だからこそ、密教房中術では女性を
“愛染明王さま”と定義するのである。

 恐妻家の多くは、自分の亭主である男の地位を差し置いて、女房の方が高学歴である。出身大学の学閥が上であり、また資産家である。学識経験者もである。更に、美人であるなどの理由が一般的に言って恐妻家をつくる要素となる。
 しかしである。例えばどんな大学を出た女でも、あるいは道徳家や宗教家のような理性の塊
(かたまり)のような女であっても、一度頭の髪の毛が痺れるような思いを一発でも喰(く)らったら、理性もへったくれもなくなるのである。そんなものは、取るに足らないのである。
 こうして、恐妻家問題は一挙に解決するのである。自分の頑迷かネックになっていたことに気付かされる。

 だからこそ理趣経では、「男女の愛は美しい」と繰り返し説くのである。では「男女の美しい愛」とは、如何なるものか。
 これは女の体験談から謂
(い)うと「はじめに腰が痺れてきて、その次には頭の髪の毛に来る」というものだった。そして、「頭の中に穴が穿(あ)いたようになり、そこから魂が抜けるような気持ちになる」というのである。

 これは男では体験できない境地なのである。
 自然界と言うものは、自己犠牲を必要とする女には、別口で特別な贈り物を授けていると言えるのである。
 ただ残念なことは、恐妻家にはこの事を理解する甲斐性がない。粗チンの為に、烏
(からす)の行水で事を終るのである。これは射精操縦法を知らないし、自らの精気を無駄に浪費したからである。
 これでは女房族が恐妻を選択をするのは疑う余地がない。

 恐妻家はこうした智慧
(ちえ)を持たず、あるいは本当の女と言うものを視(み)ていない為に、女の魂を天外に飛ばしてやることができない。だから男は、男という自分の性の根本に立ち返り、精進を重ねる必要があるのである。

 ところで、一度脳天が痺れるような味を覚えた女は、そうさせた男のことを、生涯絶対に忘れない。
 昨今は不倫が大流行で、愛人流行りであるが、女房族が不倫に奔
(はし)る最大の理由は、自分の亭主が恐妻家であるからだ。粗チンであるからだ。こうした男とのセックスがつまらないからである。
 粗チンでは、女を頭の髪の毛まで痺れさせる事は出来ない。
 しかし女が頭の髪の毛まで痺れる味を知った場合、その女は一目見ただけで、どことなく違って来る。
 その顕著な例は、まず恐妻が一瞬にして、健気
(けなげ)な娘のような姿に豹変することである。小娘のような甘え方となる。本性だろう。そもそもそうしたものである。
 女の本性は、実はこれなのである。女とは、
“愛染明王さま”あることを決して忘れてはならないのである。

 男が女の本当の正体を知れば、健気で従順で、それでいて色っぽさ、女としての艶
(つや)やかさが出て来るのである。これこそが女の魅力。夫婦和合も、その根本は此処にある。
 綺麗な、魅力ある女は亭主自らが「つくる」のであり、これこそが「男の力」である。「甲斐性」である。
 だからこそ、また「亭主関白」が、女から許されるのである。
 「亭主関白」は、男が自分で宣言するものではない。女の尊大さ、偉大さによって、女から許されるべきものなのである。女が許しを与えるからこそ、男は女に甘えて、そのご褒美に亭主関白が許されるのである。



●男は、わが魔法の如意棒を徹底的に鍛えよう

 昨今のブームは男女平等観である。しかし、これは実に訝
(おか)しな事ではないか。
 一体どこが、男女が平等なのだ。第一、構造が違うし、性格が違うではないか。性質や生理までも大きく異なっている。
 それにも関わらず、一方で、この矛盾は平然と履行されている現実がある。

 近頃は女が強くなり、男の値打ちが急落している。昔のように、家長制度も崩壊した。かつて家長であった亭主は、今ではちっとも偉くなくなった。
 その上、女が恐妻へと変貌し、男は自分の坐る座すら家庭では見られなくなった。更に女の尻に敷かれ続けると言うのも、如何なものか。

 家長制度が崩壊した今日では、家庭内の序列は、第一位が女房、第二位が子供、第三位がペット、そしてずっと下がって亭主という順になっている家庭が多い。子供の事になると、その発言力は女房に一任される。こうした家庭に棲
(す)みながら、亭主自身が、自分が最階位であると言う自覚症状を持たない亭主族も少なくない。

 また、こうして女を強くさせてしまった責任は、むしろ男の方あるのではないか。
 それは自分自身が所有する、魔法の如意棒の使い方を知らない男は殖
(ふ)え過ぎたと言う事である。
 では、その元凶は何処にあるのか。

 それは学校の義務教育で教える、「性教育」と名を打った似非
(えせ)教育である。この性教育の実体は、性とは程遠い、性器教育である。この性器教育が、男を駄目にし、女を駄目にているのである。そして、これを教える指導者側が恐妻家であれば、そこで教えられる教育内容は、悲惨な結果を齎(もたら)すのは当然の成り行きであろう。
 こうして現代人の男達は、益々駄目になっていったのである。
 古川柳には、次ぎのようなものがある。

屋根ふきの出したでさわぐ長局(ながつぼね)

 時代はいつの時代も、女がこれに関心を払うと言う事を物語っている。魔法の如意棒に一発掛かれば、どんな女でも一コロなのだ。
 そこが宮中や幕府の大奥で、長い一棟の中に多くの女房の室の局
(つぼね)であろうと、気位の高い武家の奥女中であろうと、男の持つ魔法の如意棒は、どんな女でも一コロにしてしまう威力をもっている。

 女と言うものは、最初は少々厭
(いや)な相手でも磨耗の女房の法力に遭遇すると、骨抜きのナマコのような存在になってしまう。そうなれば、理性もへったくれもなくなってしまうのである。
 そのいい例が、平清盛
(たいらのきよもり)と常磐御前(ときわごぜん)ではなかったか。常磐御前は、大変な貞操の固い女性であった。

 常磐御前は平安末期の女性であり、もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕。源義朝に嫁ぎ、今若・乙若・牛若を生むのである。
 平治の乱に義朝敗死後、大和に隠れたが、六波羅
(ろくはら)に自訴し、子供の命乞いのため平清盛になびたのである。
 結局は性の奴隸になったのである。
 良人
(おっと)の仇(かたき)である清盛の膝下(しっか)でのたうち回り、最終的には理性もへったくれもなくなってしまったのである。
 これは常磐御前に限らず、世の女と謂
(い)う生き物がどのようなものであるか、如実に示しているではないか。
 女は一度頭の天辺から魂が抜けるような感覚を味わえば、そこから抜けだせなくなる。また、本当に興奮すると、サザエのように身を撚
(よ)じって喘(あえ)ぎ、何処までも蹤(つ)いてくるものなのだ。
 そして、これは理性の強い女程、顕著に顕われるものなのである。
 但し、これには非常に手が掛かるが、一度痺れさせれば、女は、かくも従順なのかと言う事を、男は再発見するものなのである。

 ところが、多くの男は自分の“守護神さま”の化身である魔法の如意棒を上手に遣い切れず、これを持て余している御仁
(ごじん)が少なくない。では、どうしてか。
 一言で謂
(い)えば、精神と肉体がアンバランスの日本人男性が非常に多いということである。精神と肉体が平均しておらず、拮抗が崩れているのである。
 やはり大事なのは、精神と肉体が拮抗していることだ。
 かつてはセックスにおいて、精神と肉体のバランスを例えるのに、一方に俥夫馬丁
(しゃふばてい)が挙げられ、もう一方にインテリ男が挙げられた。そして両者を比較するのである。
 こうして比較すると、なるほど俥夫・馬丁の如き“肉体派労働者”は立派なものを持っている。
 だが、この類
(たぐい)は自己中心的であり、勝手に突っ走るから、最初は一時的に女性を満足させることが出来ても、それは欲望の範疇(はんちゅう)であり、結局長続きしないのである。朴訥であり、荒々しく単独独走である。相手の反応を見ない。

 では、インテリ男はどうか。
 インテリ男は俥夫馬丁と正反対であり、性交自体を賤
(いや)しむ気風があった。気取っているだけであった。その中でも、特に気取り過ぎた奴が秀才と言われる連中であった。
 しかしこの秀才と謂
(い)うタイプは頭だけを遣って、肝心な自分の魔法の如意棒を上手に遣えない程、気取り屋のアンバランスな性格構造をしているのである。
 性格が偏り過ぎ、一方で精神と肉体の両方を正しく作動させる回路のスイッチが錆び付いているのである。したがって、この切替が出来ないのである。
 つまり、魔法の如意棒のトレーニングを殆ど行っていないのである。だから、イザというときに、モノが役には立たないのである。こうなると、おおよそ秀才を亭主に持った女房程哀れなものはないことになる。

 もともと女と謂
(い)う生き物は、少しぐらいの貧乏や苦労で、泣き言をいわないように生まれついているのである。男に、男の甲斐性があれば、従順に蹤(つ)いて来るものなのである。亭主が、正しく自分の魔法の如意棒を使い熟(こな)し、使用法を誤らなければ何処までも蹤いて来ると言うのが、女という生き物の実体なのだ。

 ところが、魔法の如意棒の使い方に未熟や、使用法の誤りがあると、忽
(たちま)ち女は夜叉(やしゃ)に変身するのである。男はこれに恐れを感じる。そして恐妻家は、このようにして出現するのである。
 どんな豪邸に住み、どんな高級車を乗り回していても、どんなに素晴らしい衣服と装飾品で身を包んでも、女はこれだけでは満足しないのである。
 だから、何かの筈身
(はずみ)で、強烈な魔法の如意棒の威力の味を知ったら、地位も名誉も金繰(かなぐり)捨ててこうした男に付き従って来るのである。

 人間は、自分の年齢とセックスを、間違いだらけの現代風の性医学で結び付けている為、歳を取ると、威力が衰えると信じ切っている。若い時だけが華
(はな)であると思い込み過ぎている。ここに大きな間違いが生じて来る。
 魔法の如意棒の使用法の誤りは実に多い。若い時だけが華ではないのだ。
 実際に、若い時は一升瓶
(いっしょうびん)に水を一杯に入れて、それを魔法の如意棒に引っ掛け、八畳間を一周も二周もできたと言う兵(つわもの)もいよう。しかし、歳を取れば、そんな元気はないと言うのが、誰もが一致する意見のようだ。こうした考え方に誰もが落ち着くようだが、所謂(いわゆる)これが老化であり、孤独なセックスに嵌(はま)って行く元凶となるのである。

 そこで、老いも若きも会得せねばならぬことは、魔法の如意棒を正しく、末長く遣うと言う極意を会得する事である。
 如意棒は何処までも如意棒であり、この如意棒を、「尿意棒」にしてはならないのである。如意棒は「尿意棒」になってしまえば、小便をするだけのアクセサリーになってしまうからだ。しかし、昨今はこの本当の如意棒の威力を知らず、老いも若きも如意棒を、単なる小便をする為の「尿意棒」にしている御仁
(ごじん)が少なくないようだ。

 如意棒は、まず「長くなる」と言う事を知るべきである。次に「太くなる」「固くなる」「天を突く」「勝手に洩れない」という五大法則を知るべきであろう。そして、この力を自在に操れば、女の躰
(からだ)を浮かすべき儀法(ぎほう)を会得したことになる。



●女の躰を空中に浮かす

 女の躰を空中に浮かす儀法は、決して力ではない。要するに女の急所を知っているか否かに掛かる。女の躰を空中に浮かすことができれば、女は空中で「之の字」を書いて奉仕してくれるのである。
 それを会得すると、どんなにお高く止まった女でも、恐妻でも、じゃじゃ馬でも、男に従順になる。奉仕者になる。恐妻が存在し、じゃじゃ馬が存在するのは、実は男の責任であり、男が無能の場合は、こうした、女が夜叉
(やしゃ)に変貌する現象が顕われる。ここに現象人間界の実体がある。
 しかし、逆に魔法の如意棒を一発喰らえば、どんな恐妻も、じゃじゃ馬も忽
(たちまち)ち本当の女に早変わりする。その為には魔法の如意棒の法力を高める努力を怠らず、日夜これに研鑽(けんさん)しなければならない。

 その為には、まず、研鑽するに相応しい体質を身に付けなければならない。一つ此処で断っておくが、これは体質をつくることであって、体力をつくることではない。何処までも、よき体質をつくらねば、奉仕に一時間は粘れまい。

 さて、人間は成人を過ぎたら、「食禄
(しょくろく)」という物が定まる。
 食禄とは自分がその後の生涯で、どれだけの食事の量があるかという総食糧である。
 したがって食べ過ぎは早く食禄を失い事になる。
 男でも女でも、食べ過ぎはよくない。20歳過ぎて、例えば主食である御飯を二杯も三杯もお変わりをするのは考えものである。これだけ食べれば、御数
(おかず)もそれにつり合う量が必要になり、大食の癖(くせ)が身に付いてしまう。大食漢では、内臓を疲れさせ、交会(こうえ)どころではない。

 恐妻家は多くが大食漢である。だから肥っている。また痩せているのもいる。それでも大食漢である。
 肥っている人間は大食いの為に内臓が疲弊し、交会までの元気が廻らない。
 その為に魔法の如意棒も縮みがちである。それは相撲取を見れば一目瞭然であろう。相撲取は、モノがでかくては相撲取は失格となる。股間の裡側
(こかん)に収まり、“回し”に収まる太さ、大きさでなければ相撲取としての外形は失格である。その上、よく食べる。よく食べて体重を付け、一杯に食べきった腹の固さが、額の固さと同じになるまで食べ続けなければならない。しかし、これでは内臓を痛め、短命は疑いなかろう。

 次に痩せている人間である。「痩せの大食い」と言う諺
(おとわざ)がある。
 食べても食べても、肥らないのだ。
 しかし、痩せを齎す病因は胃拡張であり、胃下垂である。そのうえ、ケーキやお菓子などの甘い物が好きだから、弛
(ゆる)んで胃は拡張状態のアトニーになっている。息が臭い。臭い息では接吻も厭がれよう。痩せ過ぎが持てないのは、ここに理由がある。

 したがって痩せ過ぎに孤独なセックスに陥る人が多く、四十代・五十代でも、独身で過ごす男は少なくないようだ。内臓を疲弊させているので、仮に女が居たとしても、長い縁を結ぶ事は出来ないし、仮に何かの縁で繋
(つな)ぎ止めていても、その夫人は恐妻であり、亭主自身は恐妻家である。

 こうして考えて来ると、交会自体も食べ物と深い関係をを持っている。その量にしても、食べ過ぎはよくないと言う事が分かるであろう。
 また、食べ過ぎれば「粗チン」になると言う事も覚えておくべきだ。内臓が疲弊すれば、男根は短くなるのである。

男根には「上品」「中品」「下品」と、「胴返し」の四種類がある。

 「粗チン」の上に勃起能力が乏しいとなると、女性からは持てる筈
(はず)がなく、またその夫人は恐妻の道を奔(はし)ろう。だから、まず食べ過ぎないことである。主食は御飯茶碗に一杯で止めるべきであろう。
 また、副食である御数も吟味し、動物性蛋白質を避け、粗チンや精液が過剰になる動蛋白は出来るだけ少なめにし、穀物菜食の少食に徹するべきであろう。

 男根には「上品
(じょうぼん)」「中品(ちゅうぼん)」「下品(げぼん)」と、それに「胴返し」の四種類があることを忘れてはならない。そして所謂(いわゆる)、「粗チン」とは、下品の事をいうのである。この下品というのは、単に包茎や仮性包茎であるばかりでなく、サイズも小さく、女性から見られただけで馬鹿にされると言う代物である。
 しかし、下品だからといって嘆くことはない。
 下品は親の遺伝でも、親の因果でもない。後天の精進によって如何様にも変化するものである。男根を親の遺伝、あるいは親譲りと決めている男が少なくないようであるが、男根は精進によって変化すると言う事実を知るべきである。
 仮に、親譲りで大きな男根に生まれついていても、後天的な行いが悪ければ短小になるし、勃起不能にもなる。これは男根が、必ずしも親譲りでないと言う事を顕わしている。

 男根には、親譲りの才能や因果は乗り移らないのである。むしろその人、個人に与えられている、過去世
(かこぜ)の因縁であろう。またその後の、努力と精進の姿が、そのまま男根に顕われるのである。
 男にとって男根は、自分自身を守護する有り難い“守護神さま”である。
 また男根が
“不動明王さま”であると同時に、女根が“愛染明王さま”である現実を知らなければならい。



●男根養成法と体質改善を養う粗食少食のすすめ

 美食を思う存分に喰らい、欲望と肩を並べる、あの浅ましい食への満足感は、一体何処から湧き起こってくるのであろうか。
 これは恐らく人間の持つ、口や舌の卑
(いや)しさが増幅しただけの、一種の妄想ではあるまいか。

 美食を食して、食通
(グルメ)を気取り、飽くことなしに食べ続ければ、人間の心は益々美食に破壊されていく運命を免れない。美食と飽食に馴致されれしまった人間の運命こそ哀れなものはない。最終的には憑衣され易い体質になり、哀れな結末を辿る事になる。

 欲望から生まれ、欲望の消え去った後の、美味的感覚は、やがて「一切空の無界」の世界に回帰する。しかしこれを幻
(まぼろし)と捉えず、いつまでも現実の出来事として追いかける場合、欲望は次々にエスカレートしていく。あの周王(中国の古代王朝の王の一人)が料理人に美味なる人肉を所望したように……。
 現代は飽食の時代であるが、美食の溺れ、酒池肉林の愚に陥ってはならない。この愚に堕
(お)ちれば性力は益々衰えるのである。そこで体質改善を養う、粗食・少食が必要になるのである。

 動物でも、鈍重な犬、のろま犬は多喰いであり、腹が出ている。
 一方俊敏で、聡明な犬は腹がぺこんと引っ込んでいる。これは人間でも同じである。
 腹が出ている人間ほど鈍重で、のろまである。腹が引き締まった人間ほど俊敏である。贅肉がなく、即座に動けるからである。反応も俊敏である。
 脂肪に纏わり憑かれ、贅肉で身動きが取れないほど無駄な肉を浸けてしまうと、当然、頭の働きや回転も兇
(わる)くなり、理解力も衰え、のろまになり、また男根は縮み上がって短小となる。
 しかし、粗食・少食に切り替えると、こうした無能ぶりは改善されていく。肥っている人間は短小である。痩せ過ぎ多胃下垂症や胃拡張症は、勃起不能か半勃起で、然も縮み上がっているので短小であるか、皮被りの包茎である。
 体質の基礎代謝をよくする為には、粗食・少食で「腹六分」を心掛けるべきである。

 人間が生活現象を営む為には、必要なエネルギーは体内に起る化学変化によって支えられているが、この場合の消費エネルギーは、生命を維持する直接的なエネルギーと、それに附随する活動の為のエネルギーを合計したものから得られる。そして、生命を維持する為の最小の熱発生量を基礎代謝と呼ぶのである。
 したがって、基礎代謝は精神的にも肉体的にも、作業を止め、消化器官も消化吸収の仕事を止め、心地よい環境の中で生きていけるだけに要するエネルギー代謝であると言える。そこで基礎代謝の測定は、早朝の空腹時において、次のような条件下で行われるのである。
 その第一は絶食状態であり、即ち被験者は昨日の夕食以降何も食していない時に、性力は旺盛になる。
 第二は、十分に睡眠を取り、精神的にも肉体的にも極度に緊張することがなく、寛
(くつろ)いだ状態がつづいている時、性力は旺盛になる。
 第三に、測定する室内温度は20度から25度までが交会の適温であり、この条件下にあるとき性力は旺盛となる。性の機能が充分に発揮されるのである。

 これは何故かというと、少食実行者の方がスタミナがあり、普通の食事を摂っている人よりも遥かに体力的にも、体質的にも卓
(すぐ)れていると言う事である。
 また大食漢は病気持ちが多いが、少食を実行する事で、これまで担って来た内臓の疲弊がまず改善され、慢性胃腸病が治り、糖尿病、皮膚病、慢性腎炎、重症筋無力症、神経痛、座骨神経痛、痔疾患、腰痛、リュウマチなどが改善の方向に向かうと言う事である。その上、男根の勃起能力が増して来て、固く、大きく、太くなるのである。あたかも松の節のように……。
 また、性力が旺盛になるので、意志力が強くなり、持続力がつくと言う事である。



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