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理趣経的密教房中術・プロローグ
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理趣経的密教房中術 10

口密(くみつ)と云う言葉ある。密教でいう、口密が含まれ、身密ならびに意密とともに三密の一つである。経典を読み、真言・陀羅尼(だらに)を誦することを口密という。
 口は心の「門」である。ここを確
(しっか)り守らないと、心の中の機密が外に漏れてしまう。
 意識は心の「足」である。これを確り統制しないと、足は忽
(たちま)ち邪道に踏み入れてしまう。
 かの『韓非子』もいうではないか。
 「事は秘密をもって成り、語は泄
(も)るるをもって敗る」と。
 秘密は秘密のまま厳守して成るのである。


●射精操縦法

 現代は依然として物質崇拝である。肉体を含めて、総(すべ)ては物として扱われる。人間の男女から分泌液も、大小便の排泄物と同じように扱われる。
 しかし、精液や愛液や体液と言う液体は、明らかに大小便と異なっている。
 大小便は明らかに排泄物である。大便は食物から吸収した残りカスであり、人体には不要なものであり、小便は血液中の老廃物などが腎臓で濾過
(ろか)されて、水分と共に体外に排出されるものである。

 ところが現代人は、人体から分泌される精液や愛液や体液と言う液体を、大小便と同じように「穢いもの」として扱っている。なぜ、もっと尊敬しないのだろうかと言う残念さが残る。あるいは穢
(きたな)いものもだと差別する問題が何処にあるのか、不可解に思えて来るのである。
 特に、精液に於ては、匂いから厭
(いや)だとか、気持ちが悪い等と文句をつける女性も少なくない。

接して洩らさずのその極意とは。歌川国定の『夢のたまくら』より。

 いつから、生命の根源である精液は、このような扱い方をされ始めたのだろうか。まさに罰当たりの限りだが、この精液こそ、男として生まれた者が、永遠の生命として、天から授かった霊水ではなかったか。

 人間は、自分の物は何一つない。
 肉体すら、天から授かった物である。自分のものでない。これを勘違いしては困るのである。
 したがって正しく遣い、大切に扱い、基
(もと)の原形や状態を損なわないようにして、一生大切に遣わなければならない物である。
 しかし現代人の、自分自身に授かった肉体の遣い方はどうだろうか。
 ある借り物に彫り物をしたり、預かった肉体に勝手に異物を挿入したりする。
 例えば男根に真珠を埋め込んだりとか、耳や鼻やその他の部分に孔
(あな)を開け、此処に愚かにもピアスなどをする。いい筈がない。
 預り物を自分勝手に自分の独断によって、遣い方を間違っているからである。
 不摂生を繰り返し、粗末に遣っては居ないだろうか。あるいは不養生から、種々の難病・奇病の病魔に取り憑かれていないだろうか。
 なぜ、自分に授けてもらった肉体を、もっと大事に遣わないのだろうか。

 現代という時代に生きる私たち人間は、生命の基本である霊水をもっと大切に扱い、後世にバトンタッチする、生命リレーのバトン走者に過ぎないのである。生命の主役は、性行為を重ねる男女にあるのではなく、むしろ精液の中に、その主人公たる生命が存在しているのではないか。
 永遠の生命を先祖から受け継いだ、命の根源である霊水にこそ、本当の尊さが宿っているのではないか。

 密教房中術や真言立川流では、霊水である精液を「甜滴
(かんてき)」と呼ぶ。
 甜滴とは、「したたる美味」という意味である。男女が交会し、清らかな愛の行為で男根が女根の中へ出入りし、その結果、迸
(ほとばし)る。こうした状態の事を「金剛漆(こんごうしつ)の甜滴」とも呼ぶ。
 金剛漆とは、黒い漆
(うるし)のように、眼に見えない絶対境の事で、交会中の膣や子宮のこという。そして見てはならない、神秘の世界の事までもを含んでいる。そして、そこに「したたる精液」を、神秘的な闇の世界に流し入れる、「甘くて、美味しい液」のことを甜滴と称したのである。こうした表現は、恐らく世界広しと雖(いえど)も、日本だけではあるまいか。

 こうして考えると、金剛漆の精液は、膣の中で無闇矢鱈
(むやみやたら)に、乱出し、洩らしてはならないと言うことになる。その為に術者は、隠行法を行い、あるいは礼念法を行うのである。そして性的神経を鎮め、射精する時を自在にコントロールできなければならないのである。この甜滴操縦法こそ、男にとっては大切な修法となる。

 女性の舌技にどんなに痺れて、悩殺されても、発射ボタンは男自身によって押されるものである。
 男の意志なくして、勝手に発射させては、この道の不能男と成り下がり、どんな高い地位についても、どんなに出世して何百人の部下を持とうとも、自分の意志で発射させることの出来ない男は、所詮
(しょせん)その後の人生は、下り坂の人生を歩まねばならなくなるであろう。

 順風満帆の人生の一コマは、そんなに長く続くことはない。有頂天に舞い上がる時間は実に刹那である。舞い上がった分だけ、作用に対して反作用が働くからである。
 この世は相対界で、常に総ての行為や言動などに、作用に対して反作用が働くのである。
 凶運だ、衰運だと運命学の言葉を連発する前に、もし、今不運に見回れているとしたら、まず、男は自分のこうした、不態
(ぶざま)な事態が発生していないか、このこと事態を疑ってみる必要がある。



●接して洩らさずの境地

 密教房中術の境地は、数々の秘術によって構成されている。「接して洩らさず」ということも、まさに密教房中術の秘術であると言える。
 「接して洩らさず」を会得すれば、転法輪礼念の最中に、絶対に迂闊
(うかつ)な「洩らす」という現象は起らない。それは射精操縱が正しく行われるからだ。こうした射精操縦法を密教房中術では「如意輪法(にょいりんぽう)」と観(かん)じる。
 自在であるが、これには抑制するだけの操縦術を必要とする。制御が大事で、馭
(ぎょ)すだけの意識コントロールが必要なのである。決して自由奔放であっではならないのである。

 如意輪法の「輪」とは、男女の陰陽を繋ぐ「輪」のことであり、その輪を、自分の意の如く趨らせると言う事であり、射精操縦法の事である。
 また、密教では礼拝法を行う際に、如意輪観世音菩薩を本尊として、百日間の礼拝があるが、女根礼念の修法も同じく、修法者は身を浄め、白衣白法衣で行うのが正法とされている。

 また、「金剛漆甜滴一心灌頂
(こんごう‐しつかん‐てきいつしん‐かんちょう)」というものがある。
 この灌頂
(かんちょう)とは、仏法を伝え、その教えを受けることを言う。これまはま、師弟の契(ちぎ)りを結ぶ儀式でもあり、戒壇(かいだん)に入り、師より灌頂を受けないものに対しては、真言法を授けれはならないとあり、それを犯せば師にも受法者にも仏罰が当たるとされている。そして、その仏罰とは、「死」であるという。

 しかし、人間を仏罰をもって脅さなくても、人間はいずれ死ぬものである。生者必滅は人間の背負う定めである。人間は誰でも死ぬ事を悟れば、死と説く仏教ですら「涅槃
(ねはん)」と同じとなる。涅槃(ねはん)は陰陽一体の中にあると密教房中術では教える。梵我一如こそ、宇宙精神の真理なのである。

 密教房中術では、二根交会の男女が冥合し、その陰陽が一体となり、亀頭と子宮が密着し、精を伝えるクライマックスの瞬間に「涅槃」を悟とされているのである。
 「金剛漆甜滴一心灌頂」は、男女が交会をし、射精をして、一体一心となり、これにより大往生することを顕わしているのである。



●二根交会は最低でも、一時間は粘りたい

 男女の性交には、時間と言うものがある。単に、男女が目合
(まぐわい)それで終わりと言うような、烏(からす)の行水(ぎょうずい)的なものであってはならない。その為には、最低でも一時間は粘るだけの軽快な体質を養いたいものである。
 一般に性交は、体力がものを言い、体力勝負と勘違いしている御仁
(ごじん)が少なくないが、性交は体力で行うスポーツ・セックス的なものでは、決してない。

 一般俗人のセックスの多くは、性交時間を延長戦に持ち込んだり、女性に悲鳴を上げさせて、泡を吹かせてやろうと考え、その戦術として、射精しそうになったら、性交中にもかかわらず、自分の会陰部を押したり、枕許
(まくらもと)に濡れタオルを用意して、手を冷やしたり、あるいは女性上位で、自分は下になり、女性にばかり腰を遣わせて、天井の節穴や模様等の数を数えるという不届き者もいる。
 また、無駄な気分転換を図ったり、玉門の入口まで慌てて抜き出し、ホッと一息つくような、大汗に塗れる御仁
(ごじん)も少なくない。こうした男の性にないする考え方は、セックスを一種の体力勝負と考えていることである。

 あるいは性交開始から合計で5、6回も放出する通称「スーパー玉出し」も少なくない。
 あるいは自らを「ウルトラ・キンタマ」などと自称し、自分は並の男とは違うのだという優越感に浸る精禄
(せいろく)浪費家も少なくない。
 しかし、一般的に言って普通人なら、一回か二回がいいところであり、それも毎日では無理である。せいぜい週に一回か、月に一回程度が常人の重複の「玉出し回数」であり、これ以上は精禄の無駄遣いとなる。

 ただし男なら、せめて一時間は粘りたいものである。熱願奮闘するも、男の人情と言うものだ。根本的に体質を鍛える必要があるのである。
 しかし、鍛えるのは体質であって、体力ではない。幾ら体力を鍛えたからと言って、体力がある者のみが、一時間も二時間も粘れると言うものではない。

 また、したり顔で、男の馬鹿正直の、女性もそれに調子を合わせてよがっていては、単に間抜けである。あるいは男が、女のよがり声に合わせ、調子に乗り、偽の芝居に自らが酔っていても間抜けである。こうした処から、夫婦もしくは男女の関係に亀裂が入り、人生の倦怠期を経験しなければならなくなる。
 最早こうなれば、何回抱いても同じ事になり、義理での付き合いで、双方が偽の満足を由としなければならなくなる。

 そして、こうした状態あるいは、こうした境地を「 接して洩らさず」という御仁
(ごじん)もいるが、大きな考え違いである。つまり、心の裡では「だれが射精などするものか」という気負いがあり、これは決して房中術の秘法などではないのである。単に、「飽きの中の意地の張り合い」なのである。

 また、こうした意地の張り合いで、せっかく行っても、形式的なものであり、男にとっても真の快感は得られるはずがなく、真の交会には義理も人情も存在しないのである。あるが儘
(まま)が、本来の男女の姿なのである。倦怠感や倦怠期から抜け出すのは、やはり真の人間の姿に戻るべきなのである。

 果たして、性交中に濡れ雑巾で顔を拭いたり、スーパー玉出しを気取って忙しく動き回っても、結局自分自身の精禄を無駄に費やし、老化を早めるばかりなのである。またこれでは、いい味も楽しめないであろう。
 そんな徒労努力は放棄して、やはり「無理をしない」ことである。男はいつも正々堂々と、女性を楽しみ、女性も遠慮なく男に縋
(すが)り付き、100%満足すべきである。



●竜華会と言う、真のエクスタシーを悟るべし

 射精の瞬間は、男は誰でも脳裡
(のうり)に「ピカッと光るもの」を感じるはずである。少なくとも、一秒くらいは自意識を失うであろう。
 こうした状態を、「死の瞬間の体験」であるという説明する霊能者もいる。しかし、射精の瞬間は、決して死の瞬間ではない。むしろ人間が人生の中で、生殖という宇宙の使命を果たす瞬間であり、人生の中で「最も楽しい瞬間」なのである。

 この瞬間は、何も若者ばかりでなく、老若男女を平等観に充
(み)たす、最高の瞬間なのである。エクスタシーこそ、人生で最も楽しい瞬間なのである。だからその時に、人間は俗界ゐの日常生活の束縛から解き放たれ、宇宙と一体になる最高の気分を味あえる、悟りに繋(つな)がる瞬間なのだ。
 だがしかし、凡夫の場合、それが余りにも短く、一瞬の刹那
(せつな)という短い時間であるから、本当の宇宙遊泳として、単に楽しめないだけである。

 密教房中術では、この一瞬の刹那を「竜華会
(りゅうげえ)」と言う。
 この「竜華会」とは、弥勒菩薩
(みろくぼさつ)がこの世に顕われ、竜華樹(りゅうかじゅ)の下で悟りを開き、何億かの人間を救う仏説を言うのである。竜華樹は、弥勒菩薩がその下で成道するという樹であり、これを現象人間界に置き換えるならば、現実に人間は、一回の性交で、何億かの精子を放つのである。

竜華会の図

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 これは男だけに存在する。性腺ホルモンの分泌による精虫は、一回の射精で約五億程が放出されると言われる。しかし、その後の補給は、一分間に何万と製造されるので、一定の時間が経てば、忽
(たちま)ち回復するのである。
 竜は男根の象徴である。また一方、池に咲く蓮華
(はず)が女根であることはよく知られている。

 『許可秘伝』にも、「竜体は大池より水を上げ、かえりて大雨を降らす」とあり、女根の充
(み)つる愛水に快適な刺戟を受けた竜は、その返礼として、大雨の如く、精液を降らすと言うことなのである。愛らしき、蓮の華に対し、花を潤す味のある教えなのである。

 一方、竜は「百宝
(ひゃくほう)」を吐くとも言われる。男根とは、様々な宝を吐き出す根源であり、男根は女根に射精する時は、堂々として上方から惜しみなく与えると言うのが正しい体位とされるのである。こうなってくると、此処で改めて男女の性器の健全性が問題になってくる。つまり、大雨の如く精液を降らす、よき体質並びにその力。
 また、これを池で受け止める豊かなる愛水。この両方が揃ってはじめて、潤いを感じる条件が揃い、男女はこの中に於いて、発育良好なる関係を保たねばならぬのである。

 密教の梵語で出て来る「シャクティ」は、性力と言う意味である。性力は体力と異なるので、この両者の意味は根本的に異なるので注意する必要がある。
 体力は、身体の力あるいは身体の作業や運動の能力、または疾病に対する抵抗力を指すものであるが、性力は、他に群を抜いて性的な能力が「優れている」ことを指すのである。つまりこれは、体質に由来し、心身の活力が優秀であると言うことを意味するものなのである。したがって、単に肉体的な強度が優れていると言うこととは違うのである。

 交会に関しては、まず性力が強くなくてはならない。竜も、強くなくては蓮華の花も干上ってしまい、水涸
(みずが)れに陥ってしまう。水涸れにならない為には、竜自体が優秀な体質を持ち、蓮華を枯れなさないようにするのが大事である。

 密教房中術では、性力の事を「十力尊
(じゅうりきそん)」と呼んで尊敬する。また、真言立川流では「力波羅密(りきはらみつ)」と称し、非常に大切にされる。十力とは、あらゆる悩みを打ち砕き、あるいは邪気を打ち払い、仏法の法力そのものを指すのである。性交の真の喜びは、強い性力があればこそ、快楽に導かれるわけであり、性力が弱ければ、単なる烏の行水で終ってしまうのである。

 強い性力より導かれた歓喜と快楽は、人間そのものの人体を構成する総ての細胞を活性化させる。この活性化によって、人間は天より授かった事故の本当の能力を開眼する事ができるのである。自己が再開発され、本当の能力が導き出される時、人は偉大な力を発揮する。
 負け犬のような弱者の地位にある者でも、勇者となるのである。

 良き人生を歩もうと思うのなら、まず、自分自身に備わる“守護神さま”をじっくりと礼念することである。これこそ、我が守り神なのである。
 常に良き人生を歩みたいと願うのなら、まず“守護神さま”を目覚めさせることである。
 “守護神さま”が目覚めれば、良い気持ちになって、悦に浸ることが出来、生を損なうこのなく悦を実感でき、そのうえ良き人生が楽しめると言うのであるから、こんな旨い話はないのである。



●よき交会を得る為には「食物の陰陽」を知る必要がある

 男女二根に陰陽がるように、その形だけでなく、性質にも陰陽の気を備えて生物は生息している。これは総ての生命に共通したものであり、食べ物においても同じである。そして地球上で育つ全ての食べ物には、全て「陰陽」がある。

 したがって、この陰陽の偏りを間違うと健康が損なわれ、病気になるのである。食べ物の陰陽は、先ずその色に表れる。プリズムと同じように考えてもらえれば理解できる筈である。赤い物ほど、赤外線を多く含み、これが陽となる。また、紫色の物ほど紫外線を多く含み、これが陰となるのである。
 肉も野菜も、また魚介類や穀類に至る迄この陰陽がある。

 さて食事は、ただ食べればいいというものではない。食事の仕方にはその食べ方
(霊的食養道では、口に含んだ以降の噛み方と食物別の呑み込み方を説く正食法)があるように、食物の陰陽を知り、その陰と陽の調和を保つことが大切である。太陽光線をプリズムに当ててみると、赤外線(陽気を帯びる)の方から赤・橙・茶・黄・緑・青・藍(あい)・紫、即ち紫外線(陰気を帯びる)の順に並ぶ。
 この陰陽のバランスを良く考えて正食法に従い、各々を少量摂取することが大切である。
 特に陰気を多く浴びると生体の陰圧が高まり、幽体にまで影響を及ぶすからである。

 即ち、常に腹六分
(従来の食事の量の半分)の食事量で満足することが大切である。粗食少食が大事である。これを実行すれば五臓六腑の内臓や消化器官などに負担を懸けなくて済む。
 病気の原因は食べ過ぎから起こるもので、通常の食事量の半分に抑えることが出来ればたいていの病気は治ってしまうとまで言われている。そのことから粗食に心がけながら、少食に徹するべきである。腹六分は体躯が軽快となり、動きも良くなる。
 一方、大食いは体躯を鈍重にし、気の循環も鈍重になる。気が鈍重になれば、それが滞り、滞れば、動きが不自由であるばかりでなく、男女二根の交会は重く、憂鬱
(ゆううつ)なものになってしまう。

 また、紫に近い紫外線を含んだ陰気の物である動物性油・砂糖・果物の缶詰・合成着色調味料・自然薬剤・コーヒー・各種ソース・清涼飲料水等を長期に亙り摂取することは人体に有害とされている。
 更には赤外線に近い陽気の多く含まれた精製塩・豚肉・牛肉・マトン等も大量に摂取すると人体に有害であると言われている。
 こうした有害な状態での交会は、結末が悲劇的である。

 因みに陽気を帯びた方から順に上げていくと、橙に当たるものは鶏肉・卵・自然塩・白身魚・白米・牛乳・マヨネーズ等、茶に当たるものは青身魚・味噌・醤油・海老類・黒酢
(くろず)・梅干し・煮干し・そば・煮野菜等、黄に当たるものは貝類・穀類・玄米・米糠(こめぬか)・胡麻(ごま)・大蒜(にんにく)等、緑に当たるものは麦及び麦緑素・豆類・雑草・陸性植物の葉等、青に当たるものは海藻類、カンテン・ナッツ・プルーン・卵油・陸性植物の根・蒟蒻(こんにゃく)・なまこ等、藍に当たるものは水・果物・蜂蜜(はちみつ)・生野菜・植物性油・お茶等である。これらの各々に置かれた食物を参考にしながら陰陽をはっきり把握することが大切である。

 少し話はそれるが、私は若い頃、肉を好んで良く食べていた。特に牛肉のステーキはまさに珍味である。しかしこの珍味と言う考え方が、人生半ばにして変わってしまったのである。
 「確かに牛肉は珍味である。珍味と言う物は毎日食べる物ではない。毎日食べる物でなければ、差し当たり必ずしも食べる必要はない。もし、本当に健康を考えるならば……」と言うふうにである。
 即ち、酸性の代名詞であり陽の極みに位置する肉なんか食べる必要がないのである。肉だけを食べ続けた者が壊血病になる所以はこの辺にありそうだ。
 世間一般では、肉を食べないと力がつかないと思っているが、これは大きな誤りである。そしてこの考え方に陥りやすいのは、筋力第一主義に固執するスポーツ選手や武道家である。

 彼らは不思議にも、身体の故障が多い。プロ野球の選手しかりである。バットやボールに当たって怪我をするのならまだしも、それ以外の転倒や急激な走塁をしただけでも、アキレス筋を切ったり、骨折や肉離れさえ頻繁に起こしているのである。これは何故であろうか。明らかにこの裏には、『蛋白質信仰』が、その大きな原因になっているのではあるまいか。
 美味しい肉をどんどん食べて、筋肉をモリモリつけてパワーアップ、などと考えているのではないだろうか。これは恐らく、野球の世界だけではなく、スポーツ全般及びに、武道全般に言えるのではあるまいか。

 古代ギリシャの肉体強化の迷信には「早く走りたければカモシカの肉を食べよ。高く飛びたければ山羊の肉を食べよ。剣闘士
(格闘家)は雄牛の肉を食べて、その闘志と力を付けよ」という教えが残されていると言う。

 「筋肉は肉から」と言う、このナンセンスな考え方は、何処か現代の欧米的スポーツ及び、それを模倣する武道の中に、未だ付き纏
(まと)って離れない幼稚な妄想ではないだろうか。
 果たして、貧血に悩まされる低血圧の人が、人の血を飲んで貧血が治るとでも言うのであろうか。
 また、これは牛乳を飲んでカルシウムが摂取できるのではと思っている迷信に似ている。牛乳は牛の仔に有効であって、人間は牛でないのであるからこれらの栄養分摂取も程遠いものに思えるが、牛乳が人体に良いと思っている迷信の一つではなかろうか。

 「肉」イコール「筋力・体力」と考えてしまうのは、何処かおかしいのではあるまいか。
 体液を悉
(ことごと)く酸性に変えてしまう陽に偏った食物をスタミナ源と思い込み、その高カロリー高蛋白は大量に食することで健康に維持しているのではないかと考える現代人は、動物性食品に哀れな妄想を抱いているようだ。

 1541年、東洋伝導の為に日本の地を初めて踏んだイエズス会士フランシスコ・ザビエルは、本部宛の手紙の中にこのように記している。
 「日本人は自分たちが飼育する家畜も屠殺
(とさつ)せず、その肉すらも決して食べることはない。動物の生命すら尊んだ。彼らは時折、海や川の小魚を食し、蕎麦(そば)や麦や粟(あわ)等の穀類が主食であり、大豆や野菜をその副食とする。味は味噌や醤油で薄く味つけされ、しかも薄味で素材の持ち味を殺さない。果物も僅かであるがと時折食する。極めて食事は質素であり、小食である。
 しかしながら、それでいて十分な健康を維持していることは誠に不思議の限りである。特に驚くべきことはそれらの僅少にも拘らず、頑強な体を持ち、足腰が非常に強く、高齢に達している者でも達者に野山を駆け巡ることができる。また男女とも稀に長寿に達している者がいる」と、驚嘆の声を発してこれを書き送ったと言われる。

 ヨーロッパ人の目で見た宣教師フロイスと数分も変わらぬ『日本史』と同じようなことを述べている。
 当時の日本に、肉や牛乳を食する習慣はなかった。それでも現代人より足腰は強く、骨格は頑強で、強い丈夫な体をしていたことが窺える。私たち日本人は古来より、何千年と言う長い間このような生活をしていたのであるが、欧米推進派の『蛋白質信仰』が、現代のような見るも無残なコスト主義
(大規模な集約農場)の一端に組み込まれてしまい、肉や牛乳が健康を維持するという迷信を信じ込まされているのである。肉を良質な蛋白源と思い込まされているのである。

 種々の現代病気の病因とされる畜産動物に与えられている飼料添加物の危険性が叫ばれている今日、未だにそれを改めることもなく、一億国民が『蛋白質迷信』を固く信じて、世界の不幸を一身に背負って、奈落の底に向かって驀進しているようにも思える。薬漬けになった飼料添加物の餌を与えられ、早期出荷を目的とする成長の早まった牛や豚は、成長は良いがいつも奇怪な病気
(アトピーや花粉症)を持病とする現代の若者の姿に、何処か重ねて見えてしまうのは、果たして私だけであろうか。

 貪欲な心は、どうしても過食に奔らせ、夜食や甘い物などを食べて、食事の内容には気を付けていても、その日一日の精進を台無しにしてしまうことが少なくない。喩え、食養の総てを知っていても、食養を実践できなければ、食養地獄に落ちてしまうのである。
 また、あるいは、よく宗教家などが、「如何なる食べ物も、出されるものは有り難く頂くべきである。心から感謝して食べれば、陰陽に関係なく、決して毒にはならぬものだ」などと説教の傍ら、この宗教家自身が貪欲に肉や乳製品を食べている姿などを見ると、人間の口が実に卑しいか、それだけで明白となる。

 何故ならば、肉や乳製品の有害性は既に述べたが、喩
(たと)えば、饅頭を過食すれば、血液はアチドージスに陥り、血中のカルシウムは減少してしまい、骨を弱くしてしまう。
 また、甘い物は頑張りが効かなくなる体質をつくり、運命的には、今一歩の所まで来ても、それが成就しないという事である。つまり「弛み」が、総てを凶事に招くということである。
 したがって、「心だ」「感謝だ」と言ってみても、食養道の陰陽を無視した精神一本主義でも、健康はやはり片手落ちとなり、心身相関の法則から外れ、よい体質が得られないのである。

空腹トレーニングと「力ちん」の絶倫体質

 まず、よき交会を得て男女二根が愛和により和合するには、美食や飽食を避けるべきであろう。粗食少食を心掛けるべしである。
 身軽になって持続力が長時間維持出来るからである。
 また、男女の交会には、精神主義は通用しないので、この事も充分に知っておくべきであろう。
 よき体質を得て、交会は正しく機能し、成就するのである。

 人間は、二十歳に達したら、それまでの生活状況や体質は、これを境に大きく変化するものである。また、それ以後における、その人の一生涯の「食い縁
(ぶち)」としての食糧は、この時に決定されるものである。
 人は一生の間に食べる食禄は最初から定まっているので長生きしたければ、少なく食べて出来るだけ食禄を引き延ばすことである。細く長くである。

 一方、早死に早老は太く短いために、大食いで早く食べて早く死ぬことになる。粗食少食と大食漢の違いである。そして、この背景には、空腹トレーニングとしての暗示がある。
 それは空腹により、健康が維持出来る。次に、空腹により長生きができる。
 また空腹により、よく働ける体躯を得て、頭の回転が良くなり、更には美しくなれ、空腹によって運命が開かれるのである。そして、交会が円満であり、潤いのあるものになるのは言うまでもない。


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