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泥酔と流転の俳人 1





種田山頭火(1882〜1940年)
荻原井泉水に師事し、自由律の句を詠む異色の漂泊流転の俳人。


まったく雲がない笠をぬぎ
(山頭火)


青い空 青い山              落日の夕陽


写真提供:宮本啓一氏(東京都)


俳人・山頭火について

 ある一人の俳人の句に、


うしろ姿の しぐれてゆくか

 というのがある。
 この俳人の名を種田山頭火
(たねだ‐さんとうか)という。

 そしてこれは厳密な意味で、定型俳句の様相を呈していない。
 だから定型俳句しか認めようとしない愛好者は、これを「邪道」あるいは「外道」と決め付ける。しかし、寧
(むし)ろ定型俳句の形式に囚(とら)われないからこそ、山頭火の句の中には捨身懸命(すてみけんめい)の、生のリアリズムがあるのではなかったか。それこそ、裸一貫、一切無一物の肉迫に迫るものがあったのではないか。そして、平凡でありながら、その行乞(ぎょうこつ)の生き態(ざま)は凄まじい。

 種田山頭火をもって、松尾芭蕉以後の俳人だと云ったら、言い過ぎだろうか。
 それは時雨
(しぐれ)の俳人として、山頭火は宗祇(そうぎ)や芭蕉(ばしょう)に直結したくなるような情味を、私に起こさせてしまうからである。

 淡泊、清純、洒脱、高逸
(こういつ)などの形容がすんなりと当てはまり、更に西行(さいぎょう)や愚庵(ぐあん)や、その他の古今幾多の飄然(ひょうぜん)たる行脚僧(ぎょうこつ‐そう)や偏歴詩人などに能(よ)く迫り得たといえる印象を与える。そして、それを超越した次元から見下ろせば、山頭火の「行乞記(ぎょうこつ‐き)」は、これらの何人(なんびと)にも見られない遺作と云っても過言ではあるまい。

 その第一の理由として、山頭火独特の厳密な定型句に頼らない自由性を以て、能
(よ)く芭蕉の精神に迫り、寧(むし)ろ非定型句であったればこそ、ある意味で芭蕉を超えたといえるのではあるまいか。

 非定型句、つまり自由律俳句は人間の魂を揺すぶり、その響が肉体に反射するという、あの稀有
(けう)な詩型を、独特な生のリアリズムに帰着させ、十七字型などに縛(しば)られず、生涯を賭(か)けて魂と格闘した痕(あと)を窺(うかが)わせるのである。
 少なくとも山頭火の自由律俳句には、芭蕉を超越した無限の寂寥感
(せきりょう‐かん)が漂っている。そこに芭蕉とは一味違う、近代的新鮮さが、彼の非定型句の中に宿っているのである。山頭火の特徴を上げるならば、自由律俳句に要約され、総(すべ)て彼の根本的徴標は、ここに回帰されるのである。

 次にその第二は、その一句一句が現実に即して生々しく、肉弾人生の展開を以て、突進するような生のリアリズムが山頭火の句の至る処
(ところ)に漂っているのである。この原動力は束縛的な定型句から解放される事によって、新鮮な現実性に迫り、芭蕉とは一味も二味も異なる寂寥感に迫った事である。これによって、現実という否定し難い真理に迫ったと云ってよい。この真理は固陋(ころう)な定型句信奉者と雖(いえど)も、拒否し難い現実の一面を、如実に物語った事実といえよう。

 更に、第三の理由を付け加えるならば、その表現方法は山頭火独特の的確性に回帰され、総
(すべ)ての句に独創性と着想性との、面白さがあり、定型句の次元を超えて、遥(はる)か異次元の領域に到達している事である。

ある観音堂にて。

 また、この異次元に至らしめたその直接の原因は、種田山頭火自身が常人と違って、性格や行為が、あるいはその性質が奇人の範疇(はんちゅう)にあったと云える事である。社会的栄誉や財産や妻を捨てて、一介の俳人となるその生き方は、ある程度の分別を持つ凡夫(ぼんぷ)には決して真似できないところである。ある意味で、これが山頭火の特異性であり、それは山頭火自身の「帰る家」がない独特の寂寥観を出している。
 もしかしたら、人間には心の深層部の何処かで、一切の現在の重荷を捨てて、「乞食になって放浪したい」という願望があるのかも知れない。その重荷の最たるものが肩書きや地位、名誉や財産、妻子や家族であろう。そう言うものは、単に重荷であって、苦しみや悩みや迷いの原因になるのである。

 山頭火が曹洞宗の禅僧として、出家したのは熊本であった。
 以降、行乞僧として九州の各地、四国や東信州にまで足を伸ばし、彼と接した人の多くは老夫婦の修行遍路、中国人や朝鮮人の行商人、飴売り、大道香具師
(だいどう‐やし)、軽業師(かるわざ‐し)、女浪曲師、女油売、研屋、天台宗の行乞僧、母子巡礼、猿回し、山芋掘(やまいも‐ほり)、鋳掛屋(いかけ‐や)、祭を追って営業する露店商やテキ屋の一行、売卜師ばいぼく‐し/吉凶を占って報酬を得る商売、または売卜者)、羅宇竹直し(煙管(きせる)を直す職人)、尺八を吹く虚無僧こむ‐そう/普化宗の僧で、尺八を吹いて諸国を行脚する。江戸時代は武士から出家した人が多かった)、得体の知れない老人、女房に逃げられ睾丸を切り取った男、青刺(いれずみ)の有る炭鉱夫らであった。

 山頭火はこれ等世間師といわれる人々と、一夜の宿を共にし、行乞の路程の中で、様々な人間模様の面白さを味わっている。

 さて、山頭火には、もう一つの俳人としての側面がある。
 それは山頭火が荻原井泉水
おぎはら‐いけんすい/1884〜1976年)の門人であり、井泉水の門人には、山頭火と非常に酷似した境遇を持つ尾崎放哉おざき‐ほうさい/1885〜1926年)が居たのである。
 放哉は本名を秀雄と云い、鳥取県生れの俳人である。彼は東大法学部卒業後、保険会社の要職から一切を捨てて放浪生活に入り、口語自由律の絶唱を生む作品を残した。彼の作品には、句集「大空たいくう」等がある。

 しかし、酷似した境遇に身を置きながら、両者のその生き方は極めて異質であった。そして最も異なるところは、放哉が透明な虚無の中に、俳人としての活路を求めて妻を捨てたのに対し、山頭火は泥酔と流転の放浪に生きる、愚との格闘の中に妻子を捨てている。ここに山頭火の生き態
(ざま)の凄まじさがある。人は、溺酔の彼を、ただの「酔っぱらい」とか、「乞食」などと言って揶揄(やゆ)するが、それは表面に囚われた山頭火観である。彼の魂は、そうした表皮にあるのではない。

 さて、山頭火は姓を種田、名を正一
(1882〜1940)、号を山頭火(さんとうか)と称した俳人である。
 この号の、山頭火という名前の由来は、中国の陰陽五行説の納音
(ナツインの連声で、運命判断の一。六十通りの干支に五行を配当して種々の名称をつけ、これを人の生年にあてて運命を判断する。甲子・乙丑を海中金、丙寅・丁卯を炉中火とする類)に因(ちな)んだもので、六十甲子に五行を配当し、これを各々の人の生年に当てて、その名称を「号」としたのである。したがって荻原井泉水の「井泉水」も、五行説に因(ちな)み、五行納音表にある「井泉水」という生運説によるものであった。

 荻原井泉水は、名を藤吉と云い、東京生れで、東大文学部卒業後、文壇活動に入り、俳人となった。俳誌「層雲」を主宰し、季題無用の新傾向句を提唱した人物である。印象的・象徴的な自由律の句を作り、彼の句集には「湧出るもの」や「原泉」等がある。
 そしてもし、井泉水が「層雲」
(新傾向俳句の雑誌で、1911年、明治44年創刊)を主宰していなかったら、恐らく山頭火は、自由律俳句など試みもしなかったであろう。

 山頭火が自由律俳句に入ったのは、1911年
(明治44年)の時であり、非定型句という独特の詩形式の中に、彼は自らの人間性を正直に、誠実に著わしたと云える。この正直と誠実は、やがて彼に、魂の苦悶(くもん)の投げかけこの中で、彼は泥酔と放浪を繰り返すのである。そして雲が流れるが如く、行乞の雲水となって各地を放浪したのである。
 その正直と誠実に裏打ちされた人間性は、やがて自由律俳句となって、自らの人生を支える基盤を作ったのである。


うしろ姿の しぐれてゆくか

 の、この一句は、種田山頭火自身の総(すべ)てに回帰される、有名な一句である。
 また「野ざらし」に明け暮れた芭蕉も、やがては山頭火の軌跡に回帰するのである。そして山頭火の足跡には、その至る処に禅宗的な「放下著
(ほうげじゃく)」がある。

 放下著とは柵
(しがらみ)を捨てる事であり、「何も持っていない」という禅門の教えに、山頭火は帰依したと言える。彼は「捨てる」という現実の中に「今、この一瞬がある」と、受け止めたのである。
 人生は、どんなに愛着し離し難い物でも、あるいは捨て難い物でも、「そこに捨てる」という行動の中に、その真実がある。捨てれば楽になるこのことを知らずに、多くの人は人生に苦悩し、そして迷っている。だから、これらを一切捨てて、漂泊の旅に出たいと考える気持ちは誰の心の中にも存在している。しかし、普段はそのことに気付かない振りをしているだけである。思い出したくないだけである。これこそ柵
(しがらみ)の最たるものであろう。

 山頭火は漂泊の旅に出る為に、味取観音堂を捨てた。また、味取の村の人々や、村の人々の親切までもを捨てた。旅への誘惑に勝てなかったかも知れない。しかし、「何も持っていない、一切無一物」を体験する為には、旅に出る以外なかった。漂泊の旅をして、行乞行脚
(ぎょうこつ‐あんぎゃ)を繰り返すしなかったのである。その捨身懸命(すてみ‐けんめい)なる、山頭火をどうして咎めることが出来よう。

 山頭火は、漂泊の旅を捨身懸命なる放下著に置き、その中で度々葛藤
(かっとう)に襲われ悶絶(もんぜつ)を繰り返している。それは一種の強敵に対峙する「格闘」に似ている。一種の格闘家のごときである。そして、その格闘家がひねり出す句は、実に生々しい。肉体をぶつけた響きは、本来の定型句には収まりきれるものでない。だからこそ、山頭火は非定型句に、自らの肉弾人生をぶつけている。
 彼の力説したかったことは、よい意味での風流を綺麗事では表現しきれないと考えていたのであろう。だから、定型句の綺麗事の風流から飛び出し、肉迫した人生道に迫ったと言える。人生は、また旅でもある。

 芭蕉が、


旅人と 我が名よばれん 初しぐれ

  と詠んだ句に対し、著者は山頭火の、


しぐるるや 道は一すじ

  と詠んだ、芭蕉の句と重ね合わせてしまう錯覚を抱くのは、果たして私だけだろうか。
 そして、また山頭火の


うしろ姿の しぐれてゆくか

 の、野ざらしに、再び帰着するのである。
 この序文の最後に繰り返すが、私は厳密な定型句のみを俳句だとは思わない。定型句を愛好する人の中には、単に俳句を、遊びの言葉道具として高所から弄
(もてあそ)ぶ人が少なくない。弄ばれた俳句に多少の風流は漂っていても、その深層部にある魂を見い出す事はできない。俳句は宗教と同じく、信念と精進を心の裏付けとするものである。

 しかし本サイトは俳句論を論ずるのでないから、本書の主旨はそこに目的を置くのでない事を読者にはご理解頂きたい。
 私は一介の研究の徒であり、また文人が眉を顰
(ひそ)め、一等も二等も低く見る、一介の武術家に過ぎない。文学的な分野とは極めて隔絶された処に立っている。にもかかわらず、私に敢えて種田山頭火を書かせる原動力は、単に私が山頭火の作品に陶酔し、固執するという表皮的な部分に駆られての事からではない。

 山頭火の精神生活の魂に触発されたためである。山頭火が現世という物質文化を超越して、彼自身が己の魂と格闘し、「行
(ぎょう)」を繰り返した行乞僧としての生き態(ざま)に触発された事に起因する。その魂への揺さぶりは、山頭火自身の表現した「孤寒」に帰着するものである。しかし、更に一歩深めて、山頭火はこの孤寒に甘んじる事なく、寂寥感へと到達している。
 つまり、人間の「生」は、死に直面してこそ、死と対決しうる表現へと進化しているのである。これは彼の『其中日記』などに顕われている。
 この点において、山頭火と芭蕉を隔てる近代的な新鮮さがある。

行乞の果てに、山頭火が見たのは落日の紅い夕陽だった。そして夕陽を見ているうちに、山頭火は「一杯やりたい夕焼空」という句を詠んだ。

 また山頭火は事実、俳句を訪ねて漂白放浪するのであるが、俳句を訪ねつつ、表面は法衣に包まれているが、その中身は僧ではなく、一介の俳人であり、一介の詩人であった。そして、僧形と俳人・詩人の相入れぬ分野が、度々撃突を繰り返している。果たして自分に、「僧の資格があるのか」と繰り返し疑念を抱いている。それは「行乞をする資格」までもを問い質(ただ)している。

 しかし、山頭火は行乞以外に生きていく手段はなかった。ここに彼の葛藤があった。またそれを格闘する為に、行乞僧としての、歩くという「行い」があった。その「行い」こそ、私が敢えて声を大にして伝えねばならぬ、もう一つの「山頭火論」である。
 これまで山頭火は多くの文人ないし、文学的素質に恵まれた多くの作家によって語り尽くされている。

 その中で、何故、私が今更、何を付け加えなければならないか、そう思う時、大方は語り尽くされたような気がする。
 しかし種田山頭火を文学の探歩として捕えるのでなく、その生い立ちから、晩年の生き方を通じて、魂と格闘した、格闘家として彼を捕え、紹介したいからである。

 芭蕉の「乞てくらひ、貰てくらひ云々」と前書きの始まる句の中に、「めでたき人の数にも入らぬ老の暮」というのがある。山頭火も、この「めでたき人」であった。

 彼は永い間、行乞を以て、その日暮しをしていた。歩き、歩き徹す生活に、年々いを感じて来て、肉体的には、毎日毎日歩き詰めて家々の門に立ち、物を乞う事の淋しさを味わっていた。

 しかし、歩かずにはいられなかった。行乞せずにはいられなかった。もう歩くまい、歩きたくないと思いながらも、やはり晩年も、歩く事を止められず、「行」という行動の中に幾多の名句を残し、五十九歳で大往生している。そこに山頭火の、魂と闘う、格闘家としての心意気が感じられるのである。またそれが、私に筆を取らせる原因を作ったのであった。

 山頭火の流転の旅は、味取観音堂と味取の村と、その村の親切だった人々を捨てての旅立ちだった。後味の悪い旅立ちである。些か後ろ髪を引かれる思いがある。しかし、山頭火は旅立たねばならなかったのである。
 網代笠
(あじろがさ)を深く被り、一本の錫杖(しゃくじょう)をつき、鉄鉢(てっぱつ)一鉢を持ち、丸絎帯びまるぐけ‐おび/中に綿などの芯を入れて、断面が丸くなるようにした僧侶が用いる帯)を締め、頸から胸に懸けて頭陀袋(ずた‐ぶくろ)を提げ、あてもない漂泊の旅に旅立ったのである。

 この時、山頭火は総
(すべ)てを捨て去り、無一文になっていた。乞わねば食うことが出来ず、食うことが出来なければ、後は死ぬだけの運命だった。しかし、食う為に乞うのではなかった。山頭火は仏道修行を通して、乞うことにより、無念に読経(どきょう)する境地を得たかったのである。

 自己の本来の心性を徹見することを、禅宗では「見性
(けんしょう)」という。
 また、禅宗の悟りを示した語に、「直指人心見性成仏
(じきしにんしん‐けんしょうじょうぶつ)」なる、坐禅によって自己の本来の心性を徹見す語がある。

 山頭火の旅立ちは、つまり、見性を妨げるところの後天的な知恵経験から起こる「悪知悪覚」を消去させようとしたのである。
 「悪知悪覚」とは、悪い事によくはたらく知恵であり、また悪いことを知覚する邪覚であった。したがって、旅立つに至った山頭火の心には、この時、一点の疑念も抱かなかったと言ってよかろう。

心の中に沸き起こった「悪知悪覚」は、波浪の様相を呈し、懐疑は益々高まって行った。心が平静を失う如く、また心の佇が、静寂を失う如くに。しかし、これも物質的は発想法から、解脱すれば、やがて治まって行くことに気付くのである。

 それはあたかも、報恩寺で望月義庵(もちづき‐ぎあん)禅師に黒髪を剃り落としてもらい、得度(とくど)した時の初心と同一のものであろう。また、味取の観音堂への長い石段を一段一段登って行く、赴任したばかりの赴任地での初心とも、同一のものであろう。この時、山頭火は、主観と客観は同一のものであったはずであろう。そして、初心が清らかであるが為に、自我自欲を遠ざけていたと言える。また、自分だけが知り得る心境は、清々涼々としたものだったであろう。ここに山頭火の純粋性を物語る一面がある。

 山頭火の旅の始まりは、まず、九州西国三十三番の寺々を巡礼する事であった。その後、四国に足を向け、八十八箇所を遍路する事であった。四国八十八箇所は、その全行程が四百八十里
(約1920キロメートル)と謂(いわ)れている。それに九州西国三十三番札所巡りを加えれば、全行程は相当なものになるであろう。この旅路において、山頭火は札所札所で納経をし、納経帳に各々の札所の印を押してもらって廻ったのである。

 山頭火が旅立ったのは1926年
(昭和元年)4月の春闌(はる‐たけなわ)の頃であったと言う。
 九州西国の初夏は早く訪れる。山々は一斉の青々と緑に染める。その緑の青葉に日が燦々
(さん‐さん)と降り注ぐ。辺は一面、緑に覆われ、より一層青さを増す。太陽はいよいよ高くなり、山々は更に青さを増して、鬱蒼(うっそう)たる叢(むら)に覆われはじめる。こうした蒼(あお)一色の山に踏み込んだ時の句が、


分け入っても分け入っても青い山

  だった。
 そして山頭火の行乞の旅は続く。山に分け入り、山から山へ。更に山から村へ。村から、また山へと。
 時には時雨
(しぐれ)に笠も衣も濡れて、黙々と歩いたことだろう。この時の情景を句にしたのが、


しとどにぬれてこれは道しるべの石

  と、雨に降られた様子を詠んでいる。
 そして炎天下の下を黙々と乞い歩く様子を詠ったのが、


炎天をいただいて乞いあるく

   であった。
 山頭火は炎天下の猛暑の中を鉄鉢
(てっぱつ)を持ち、家々を乞い歩く姿を詠んでいるのである。
 そして、山頭火は春も、夏も、秋も、冬も、ひたすらに乞い歩いた。

 春は雲雀
(ひばり)が声高に鳴く麦畑を通り、夏は青い山と炎天下の中を歩き、蝉時雨(せみ‐しぐれ)に埋まりながら歩いた。また秋は、ススキの細道を通って、紅葉と落ち葉時雨の山中に身を埋めて歩き、冬は木枯らしに吹かれ、鉄鉢の中にまるで米の喜捨を受けるとうな霰が降り注ぐ中を、乞い歩いたに違いない。


鉄鉢へ音たてて霰

 霰、鉢の子の中へも

 そして季節は巡る。冬が去り、やがて春が来て、緑と水音が益々強くなる。小川の細流(せせらぎ)の音が、何とも小気味のいい音を立てている。
 乞い歩く中、ふと、湧き水に足を止め、滾々
(こん‐こん)と湧き出る山の水を心行くまで、渇いた喉を潤したに違いない。そして、この湧き出る水は「永平半杓の水」【註】禅門・洞家には『永平半杓の水』という遺訓がある。この遺訓は道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶に返して、水の尊いことを教え、物を粗末にしてはならないことを戒めたことによる)と同じことに気付いたのではあるまいか。
 山頭火は、旅人の誰よりも、本当に水の有り難さを知った人ではあるまいか。

 朝早く宿を出る世間師達は、今日の天気と睨
(にら)み合いをしながら、今日の稼ぎの胸算用をする。どれくらいの稼ぎになるか、それを空を見上げて、いかほどかを弾いてみる。その日暮らしの木賃宿(きちん‐やど)に集まって来る世間師達は、いつも同じ顔ぶれなのだ。木賃宿は木賃を払わせて旅客をとめる安宿のことである。こうした安宿に世間師達が集まるのである。そして世間師達は、朝食を早々とすませたあと、その日の天候に関係なく宿を後にする。

 山頭火は朝早く宿を出て、今日はどれくらい歩いただろうと思う。村を過ぎ、山に分け入り、また村に出る。畑を横切り、田圃
(たんぼ)の畔道(あぜみち)を歩き、橋を渡り、丘を越え、峠の木下で行脚の足を休める。二本の投げ出した脚をよく見ると、その爪先に蜻蛉(とんぼ)が停まっている。
 そして今日もよく歩いたと思う。そんな中、陽は傾き、辺一杯の夕焼けである。美しいと思う。美しい夕焼けである。そこに酒があればいいと思う。そして、こんな句をひねり出している。


一杯やりたい夕焼空

  山頭火が「四国へんろ日記」をしたためたのは、昭和14年10月1日であった。日記文を11月1日から書き始め、10月中は俳句だけで済ましている。これは旅心が定まらなかってのではないかと思われる。そして11月21日には、小豆島に渡り、土庄町の南郷庵(なんごうあん)を訪ねて、故・尾崎放哉(おざき‐ほうさい)の墓に詣でている。その三日後の24日には小豆島を離れ、その際に、


波音かすかにどうにかならう

 の句を詠んでいる。
 この旅は山頭火にとって、後にも先にもない大旅行であった。
 「あの山越えて」は、九州西国の行乞記であるが、その頃はまだ歳も若く、行乞から得る喜捨は決して少なくなかった。その日一日の食事代と宿代と、僅かながらに舌に転がす酒代は稼いでいたであろう。その為に、何処の宿でも泊まり易かった。また、山口県小郡町の其中庵
(ごちゅうあん)に住み着いてからも、周防(すおう)、長門、安芸(あき)などを僧形姿で托鉢している。更に、近畿、東海、東京、信州、北陸にも足を伸ばしているが、この時は托鉢をせず、層雲俳句誌友に迎えられて、句会に参加するなどして、俳句誌友に支えられて路銀も与えられ、その道中は汽車で移動すると言うものであった。

 ところが四国遍路では、自分は僧侶としての資格がない。網代笠や僧衣に隠れれて、世人を騙
(だま)し、今まで喜捨(きしゃ)を受けていたのではないかという自分自身への責めから、僧を捨て、


もとの乞食となってタオルが一枚

  の句を詠み、自らの魂と格闘を始めるのである。悶着(もんちやく)に苦戦するのである。

 しかし、山頭火は、ただひたすらに乞い歩く旅が、一種の寂寥
(せきりょう)となって、心の中に襲って来ていることを知った。自分自身で、自問自答しながら、「山頭火よ。お前はいったい何処に行くのか?」と、そんな疑念が湧き起ってくるのである。あるいは寂寥が同居していたのかも知れない。疑念と寂寥に格闘した足跡が、山頭火にはある。山頭火の格闘は、実に此処に始まるのである。本書では、格闘する人間苦悩の現実を取り上げてみた。

 人間の歩いた足跡は、「苦悩」と「迷い」の跡であろうと思う。また、それを如何に克服して行くか、それが人生の最大のテーマであろう。そのテーマに、真摯
(しんし)に自分と対面する時、人は自分自身を深く掘り下げようとする。そこに、何か新しい自分が見えてくるからである。
 そして自己を振り返ってみて、そこに見るのは一つの郷愁であろう。その郷愁が必ずや、山頭火独特の郷愁と重なり合い、今まで忘れていた
「懐かしい脳」に反響して、何か新たな、力強い打開の糸口が見えて来るはずである。



西郷派大東流合気武術

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