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理趣経的密教房中術・プロローグ
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理趣経的密教房中術 8

人間は広いものを狭くしている。特に現代人においては狭量が目立つ。人生における歳月は、本来長いものである。一般に人生は短いと言われるが、短いか長いか、それは死を迎える刹那でなければ分からない。
 則ち、現代の多忙は、長い時間を忙しく動き廻ったり、忙しそうにして、長い時間を自分から縮めて短くしてしまったのである。
 天地はもともと広いものである。


●男根と女根の理

 男は玉茎を女の陰門に差し込み、「陽の気」を送り込み、女は陰門で、男の玉茎(ぎょくけい)を受け支えて「陰の気」を女根へと送り込む。そして男女二根は正しく循環する。
 合体すればこそ、循環するのであり、陰は陰、陽は陽で孤立していたのでは、循環が起らない。
 孤立は、気の循環すら止めてしまうのである。これでは交会そのものを狂わせてしまうからである。

磯田湖龍斎『咲本色春駒』第八図

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 例えば、世の中には孤立した淋しい男が居る。あるいは同等の女が居る。
 しかし、これでは孤立であり、寂寥
(せきりょう)で孤立しているが、単体では何の意味もなさない。水の循環が枯渇して、立ち枯れした、まさに姥桜(うばさくら)である。

 現代という時代は、時代の流れが速く、その進度変化が速い為、これに個々の速度を合わせられない人間が非常に多くなった。時代の急速な変化や仕事上の多忙のために、霊中枢を狂わせ、交会の本意まで軽く扱われ“お義理的”になっている場合も少なくないようだ。
 夫婦間を含む男女の愛は義務化する傾向もあるようだ。つまり、交会が遊戯化されて義務の一部になり、そのことが深刻な排泄障害を起こすのである。
 特に男の場合は、この弊害が大である。

 一年365日発情しているくせに、交会のものは実に味気なく、相手に排泄するだけという形で終わっていることも少なくないようだ。
 また、こうした排泄機能を狂わせる実情には排泄機能並びに生殖機能を司る腎臓にダメージが起こり、腎臓障害などを起こし、早々と腎臓異常から人工透析をする人も少なくないようである。その多くは、多忙に明け暮れるサラリーマンに多いようである。
 つまり、このことから考えれば、風俗や水商売などの風俗産業に足を運び、漁
(あさ)る行為を繰り返して“一年365日発情”していることに元凶が巣食っており、これが体内のアルカリ性状態の条件を損ない、これが腎臓の機能障害に飛び火しているということも言えよう。

 つまり元凶は、多忙に明け暮れる多忙者の「食肉」中心の食事であり、あるいはそれに準ずる乳製品などの動タンパク摂取が禍
(わざわい)の元凶となっている。食肉類がこれらを食することで血液を酸性化し、この酸性状態が腎臓を始めとする血液系に著しく機能失墜を生じさせているのである。
 多忙は僅か週一回程度の“お義理セックス”に加算され、人生の貸借対照表は「負債の部」ばかりに軋轢
(あつれき)が懸かっていることになる。損益計算書はマイナスばかりが大きくなり、生存するための生を損なっていることになる。
 生を害する元凶は“お義理的”という中にも紛れ込んでいたことになる。

 特に北半球の先進国と言われる国々では、この傾向が強まっている。またそれが異常なる排泄障害から腎臓機能を低下させ、ついには人工透析というような最悪の事態を招くようである。
 男女関係も、先進国ほど狂いが生じ、動蛋白摂取過剰で、異常性欲は旺盛なのだが、それを持て余す輩
(やから)が少なくない。ホモ増加の現象もこうした事から起っている。
 こうした現象に陥っている国は、逆に人口の減少が起る。性の本来の姿である、生殖と言う肝心なことを、誰もが忘れている為である。これでは繁栄があり得ない。滅亡に向かって、歩んでいるのが同性愛である。狂った性欲が、こうした異常事態へと拍車をかける。現代人が、狂い始めた証拠である。性を愚弄
(ぐろう)した為である。

 しかし、陰と陽、陽と陰は、本来はこうした状態ではなかった。陰陽は、往々にして混沌としていたが、ある機転を境にして、陰が克明になりはじめ、陽が克明になりはじめた。正しき、陰陽が明確になりはじめるのである。
 その明確さは、克明に各々の違いを見せ付けた。
 陰と陽は、相互の違いの為に、一つになる現象が起きた。
 これは万物に及んだ。子孫の主の保存の為の、生殖行為であり、陰陽が交わることで、新たなものが生成されるようになったのである。ここに宇宙の循環がある。これは人間でも、例外ではなかった。
 これは天地が合体した宇宙創造のイメージであり、此処に至って、天地は連携され同根となる。一体化されれば、新たな生命を生むのである。

 大自然では天地陰陽の二気が交わることによって、四季が移り変り、昼夜が移り変る。また、その止まることを知らない、移り変りの変化が、万物に生成発展を促し、生命活動の営みがある。だが、天地の二気が交わりをやめ、気の循環が途絶してしまったならば、生命エネルギーは枯渇
(こかつ)し、宇宙は悉(ことごと)く死に絶えてしまう。

クルクリー

 陰陽の二気が交わり、生命自身の中に快楽という喜びがあるから、楽しく生きる事が出来、愛欲は生命活動の一翼を担っているのである。
 この事から、愛欲の中に陰陽の哲理を持ち込み、それを基盤として吉凶禍福の予知を用いて、男女和合の法則を定めたものが『理趣教的房中術』なのである。したがって、陰陽の交わりは清らかなものであると説く。清らかなものは美しいと説く。ここに大自然の循環がある。

 天地陰陽の交合は、天地に調和を与え、万物が生成発展をする基盤を造る。
 しかし、これはあくまで健全であっての話である。もし、快楽が苦しみとなり、苦痛が伴うものであったとしたら、個体の生命は傷つけられ、人間社会は害毒で溢れ始めるであろう。天地が元として、永遠無限の生成発展を繰り返しながら、それに終わりがないのは、調和の取れた天地陰陽の交合を繰り返しているからだ。ここに健全な交会
(こうえ)がある。
 この天地陰陽の交合に狂いが生じ、交合自体が歪
(ゆが)められてしまったら、万物の生命の明日はないのである。生命体は死に絶えるのである。如何に論理的に優れ、自己主張をし、それが正統性を思わせる正論に思えても、実は錯覚である。快楽遊戯の一時的な戲れに過ぎない。単に悦楽である。戲(たわむ)れでは、宇宙は循環しないのである。

 大宇宙に対して、小宇宙 という考え方がある。
 これは天体の大宇宙に対し、人体の小宇宙を対比させた言い方である。
 天地陰陽は交合を行って、そこに生きるものに歓喜の恵みを齎
(もたら)す。植物から動物に至るまで、等しく交合を行い、自然の調和の中で生成化育を繰り返している。
 それと同じように、人間においても男女交合は、生成化育の一翼を担い、生命を育み、生きる喜びを与え、本分を全うする人生最大のテーマがここにある。
 『理趣経』では、男女の愛よくは「清らかなものである」と繰り返し説いているのは、人間の人生をテーマにしている為である。確かに経典は唯物論的で、肉体を主体にしたものであるが、人間の生は清らかであってその欲望は健全となり、そこに交会の価値観が向上すると説いているのである。



●空即肉体

 男女の二根の性器は、実に貴いものである。何故なら、これこそが自らの守護神であるからだ。人間は生まれながらに、守護神を備えて生まれて来るのである。守護神は貴い。
 そこで礼拝が起る。虚心合掌
(きょしん‐がっしょう)と、思わずこうなる。
 だからこそ、男女はお互いの性器に対し、礼拝する必要がある。特に女性は、仰臥
(おうが)する男の足の間に膝をつき、不動尊の礼拝をする必要がある。また、男性も女根を礼念する必要がある。何故ならば、そこに「守護神」を観(み)るからだ。

 虚心合掌の印を結び、真言として「おん・さんまや・さとばん」を唱える。次に、定恵虚心
(じょうけいきょしん)合掌をし、「のうまく・さんまんだ・ぼだなん・あさんめり・たりさんめいさんまえい・そわか」を唱える。それほど“守護神さま”は貴いのである。
 虚心合掌は女根の形、定恵虚心合掌は、男指を立てて、男根が女根に挿入された形を顕
(あら)わす。呪文は御本尊と自分は、「平等一致」であり、しかも「入我我入」の境を意味したものである。礼拝することこそ、自分の運気を盛り上げるものである。

 次に女性は、両手で合掌の形で男根を包み、優しく上下に動かし、刺戟
(しげき)を加える。こうする事によって、男根には力が漲(みなぎ)り、怒張する。直立不動する。
 こうして怒張した男根の茎を左手で握り、右手の指で男根の会陰部
(えいんぶ)を撫(な)でる。これは修法における塗香ずこう/香を手や身に塗って行者の身を清めること、あるいは、その香のことで、六種供具(ろくしゅ‐くぐ)の一つとされる)と同じであり、金剛杵(こんごうしょう)を受けたのと同じになる。
 しかし、これくらいの女性の奉仕で、慌
(あわ)てて洩らすような男性では、まだまだ修行が足りない。何故ならば、女性の礼拝修法は、これから更に続くのである。

 次に女性は、直立不動になった“お不動さま”の首っ玉の「亀頭」の、包皮小帯の辺りに接吻をする。この修法は、酒水灌頂
しゅすい‐かんちょう/頭頂に酒の水をそそぐ儀式を真似たもの)にあたり、亀頭の頭の部分から口に含み、喰(く)わえ込んでしまうのである。しかし、これは「何だ、まるで尺八じゃないか」と甘く見てはならない。バチが当たる。下衆(げす)の勘繰りや見下しは止めなければならない。
 女性の舌技を受けながら、女性が男性を刺戟する真の意味を悟らなければならない。
 つまり、男根を真と仮の間の「中有」と検
(み)るのが密教房中術の哲学なのである。

 密教哲学に親しみ、何も識
(し)らぬ輩(やから)とは、はっきり差をつける事が必要である。いたずらに、性を浪費する愚か者とは、一線を引き、房中術を会得する者として自負し、その違いを示さなければならないのである。
 一般に男女の性は、精禄
(せいろく)を浪費させる愚行に近いものである。これでは悟りを得るどころか、運勢を益々下げ、運気を下火に向かわせて、躰(からだ)を老衰の方向に向かわせてしまう。異常性欲とは、はっきりと一線を引かねばならないのである。

 そもそも密教とは、宇宙現象界の「因」と「果」の顕われと観
(み)て、因果のメカニズムを識(し)る事が大切である。このメカニズムの根本は「空(くう)」である。
 空は、万物を一呑みにした崇高
(すうこう)な存在論を顕わしている。そして、このよう存在する万物は、喩(たと)え地球でも、現象人間界でも、因果のメカニズムによって映し出された「仮の姿」であると観(かん)じたのである。人間の眼は、この仮の姿に騙され易い。
 真実の存在こそ、地球もで、人間でも創り出せるのであって、この根本は「空」であると説くのである。「空」なるメカニズムが存在するからこそ、「仮の姿」で眼に映る、生命だの、財産だの幻覚に振り回されて、それに齷齪
(あくせく)するなと教えるのである。そして、密教こそ、現実的な虚無と言える、独特の価値観を伴っているのである。
 また、密教は「空」を根本原理にするため、「空」以外の信仰は、一切認めないと言うのが密教の教えであり、これは現実論に則している。
 この強烈な思想をもって、病気も「仮の姿」と説き、男女の恋愛も「幻」であり、極端に言えば、神仏の「御利益」も、夢であると教えるのである。そんなものは最初からないのである。最初からないものに、騙されてはならないのである。

 時が過ぎれば、如何なる栄えた文明すらも、滅びるからである。栄枯盛衰の原理を「空」に求め、時節は刻々と変化し、決して止まる事がないと教えるのである。万物は変化し、実体がないのである。
 仏教の教理は、宇宙を相手にしたものであり、特に、密教は宇宙のメカニズムを解明して、神仏の真の姿を「空」で顕わしているのである。真の姿こそ、「空」であり、「空」こそ、人間が所持しているものなのである。
 「即身成仏」という思想は、「空即肉体」の一元論で、人間の持つ「空」性を説いているのである。
 しかし、欧米の恋愛術と男女関係の循環の二元論対立は、これらを忘れ去らせる元凶を招いた。



●性交こそ、真の人間の姿

 密教房中術では、性交時における男女の交会
(こうえ)を「阿闍梨(あじゃり)」と呼ぶ。
 阿闍梨は密教では、修行が一定の階梯
(かいてい)に達し、伝法灌頂(でんぽう‐かんちょう)により秘法を伝授された僧を指すが、男女における交会(こうえ)は、子孫生殖には宇宙のメカニズムの為(な)せる技が存在し、これこそが天地の真理を顕わす「空」であると説くからだ。
 しかし、生殖の為に、二根交会をもって顕わし、よがり声を上げている男も女も、やがて生まれ出るであろう子供も、「空」からみれば、やはり仮の姿なのである。
 何故ならば、折角
(せっかく)生まれ出ても、やがて死ぬ運命を背負っているからだ。したがって、男女二根交会から生まれ出た人間は、何処まで追求しても、死と隣り合せであり、儚(はかな)い仮の姿と言えるのである。

 とすれば、どうしても生命を継続させ、性交すること事態が、人間にとっては、この刹那
(せつな)において「真の姿」になりうる事が出来る。
 この哲理を実践し、実行する事が密教房中術の教えなのである。
 身を以て感得し、天下に教える男と女が「阿闍梨」となるわけであるから、男から女へと生命の掛け橋になる男根は、奇妙かる不思議な存在であり、射精の刹那
(せつな)において「真」になることができる。
 この刹那に於いて覚醒
(かくせい)を覚え、一瞬迷いから醒(さ)めるが、萎(しぼ)んでしまえば、また許(もと)の「仮の姿」になってしまうのである。
 勃起している時は、「真」と「仮」の中間に位置して居るわけだから、これを「中有
(ちゅうう)」という。
 「中有」は、「四有
(よんう)」の一つであり、衆生が死んで、次の生を受けるまでの期間を指す。
 つまり、勃起こそ、中有から生有
(しょうう)に至る、衆生が死んだのち、次の生に、まさに生れる瞬間を指すのである。これは射精時の瞬間である。

 密教哲学は、男根の持つ“お不動さま”を御本尊とするのである。
 さて、ここで“お不動さま”の完全勃起の秘法を明かさなければならない。何故なら、一心に礼念
(らいねん)し、舌技の限りを尽くしても、半勃起であったり不能(インポ)であれば、これは女性にとって拝み損である。拝んだ以上は、しっかりと完全勃起してもらいたいものである。そうでなければ拝み甲斐がなかろう。

不動明王像
 “お不動さま”が萎えたような万一の場合は、改めて女性が印を結び直さなければならない。印契を結び直し、「どうぞ立ちますように、怒張して下さい」と拝み直すのである。
 特に半勃起の場合は、大きくなっているが、今一つ力が足りないと言う場合に「持水合掌
(じすいがっしょう)」する。
 持水合掌とは、水を掬
(すく)うような形で、心を罩(こ)めて恭(うやうや)しく男根を拝むのである。

 また、完全不能の場合は“お不動さま”が眠りこけている状態なので、「蓮華座印
(れんげざいん)」を用いて呪文を唱える。
 「人指し指」「中指」「薬指」「小指」の四指を組み合わせ、この四指で男根を包み込み、立てた拇指
(おやゆび)の腹の部分で男根の根元を支え、この印を結んだまま、掌と指を男根から離さず上下にさせて刺戟(しげき)するのである。

 この時の呪文は「阿尾羅吽欠
(あびらうんけん)」と唱える。
 これは肉体である胎蔵界の五大である「地・水・火・風・空」を念じ、七難即滅の真言と信じられているものである。
 ちなみに、「七難」とは、法華経普門品に出る、七難についての災難である。
 観音義疏では、火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難とまとめる。
 また、薬師経では、人衆疾疫難・他国侵逼難・自界叛逆難・星宿変怪難・日月薄蝕難・非時風雨難・過時不雨難を指し、仁王経では、日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・悪風難・亢陽難・悪賊難を指す。

 さて、「蓮華座印」の修法は効果覿面であり、逆に張り切り過ぎる場合がある。中には、女性が舌技をした途端に、ドバッと火山を噴火させ、顔面シャワーの未熟者が居る。こうした未熟者に対しては、男根の呪文を行わねばならない。

 印契は次の通りである。
 「縛日羅駄都鑁
(真言は「ばさらだどばん」)」と呪文を唱え、外縛印(がいばくいん)を結んで男根より手を離し、合掌するのである。これは七福即生の呪文である。
 ともに大日如来の真言で、その効果は絶大とされている。
 男根に対する女性の吸引舌技は、性交にさきがけて男根に捧げる女性の敬愛法である。これにより、女性は自分の裡側に蟠
(わだかま)る雑念を捨て去る事が出来、男性に、我が身を同化させる事が出来るのである。
 しかし男性側にとって、最も注意しなければならないことは、こうした女性からの敬愛法を受けて、ニタニタと低俗な笑いを泛
(う)かべ、嬉しそうな顔をしてはならない。股間に位置し、修法を真剣に行っている女性にメロメロになってはならないのである。
 男として最も注意しなければならないことは、自分の体調や勃起具合によって、女性と同じく、無ずからも呪文を唱え、礼念し、厳粛な気持ちと真剣さで、これを受けなければならないのである。そしてこれにより、男は不動金剛身
(ふどうこんごうしん)となるのである。



●不動金剛身の大事

 不動金剛身はまさに男の「真の姿」である。この「真の姿」を顕わしながら、一方に於いて心が乱れたり、心が別の所に行ってしまっては、不動金剛身の中に魂が宿らず、魂の抜けた形だけが、存在していることになる。

 「仏作って魂入れず」とは、この事であり、苦労して物事を殆どを達成しながら、肝要の仏の魂自体を欠いたのでは、何の意味も持たなくなる。したがって、雑念をまき散らさず、真の姿に接近しつつ、然も、舌技で洩らさぬという、限り無く真の姿に近付きつつ、不動金剛身を維持するのである。

 こうした維持を継続させつつ、今度は男性が女性に対して行う「女根礼念修法」を行わねばならない。
 女根礼念修法は、男根礼念修法の逆であるが、時に日本の男どもは、舌技が下手と言うか、心が籠っていないと言うか、全般的に言ってこの修法が大変下手である。
 第一に、滑らかに舌が動かない。
 第二に、潔癖さが理性を妨げ、女根が穢
(きたな)いと言う暗示がある。
 第三に、舌技は、密教房中術では「ひらがな文字」のように滑らかに動かせとあるが、日本の男どもは、硬い「片仮名
(かたかな)」で舌を動かし、刺々しさが残留する。したがってこれは、不可である。

 その点、欧米の男どもの方が、欧米語を口腔の中に回転させるように馴染まして行くので、まるで油をペロペロと舐
(な)めるような感じで舌技を行うところから、一部の日本の女に持て囃(はや)されているが、日本の男どもより上手と言えようが、実はこれだけでも不充分である。
 洋の東西を問わず、密教房中術を知らなければ、結局、不動金剛身も女根礼念修法も、全う出来る分けがないのである。

 多くの洞察すると、自分の勝手な想像から、外国のポルノ映画で吸収した拙
(つたな)いテクニックを真似しているだけに過ぎない。結局、交会の何んたるかも知らず、性交の何たるかも知らない。安易に、自分のワイフに、「上の口」と「下の口」を義務的に、その役目を果たしていることに過ぎないのである。これでは結婚数年目に、倦怠期が訪れるのは当然であろう。

 一見すれば、男根が不動金剛身に変身した姿は、ただの突っ立った棒のように映る。だが凝視すると、これにはかなりの表情がある。鰓
(えら)も張っていれば、表面の血管も膨らんでいる。おまけに“亀さま”の頭まであり、“一つ眼小僧”まで持っている。
 したがって女性の舌技が、勘所
(かんどころ)に舌を這(つか)わせ、まるで痒(かゆ)い処をかくような感じで、満遍なく嘗め尽くさねばならないのと同様に、女根礼念修法も、男は女根の勘所を巧みに捉えて礼念を行わねばならないのである。

 西欧の男どものように、脂
(あぶら)っこく嘗め廻す必要はないが、複雑な勘所に舌技を遣うことは大事なことであり、まず滑らかに、舌を「の」の字を書くように回転させることである。決して片仮名になってはいけない。然もそれでいて、“お不動さま”は直立不動の態勢をとり、不動金剛身を持続して居る事である。



●礼念を行うには舌から毒を抜け

 人間の男女の舌には「毒」が含まれている。舌技を修法する時は、この毒を完全に抜かなければならない。
 毒を抜くには、次の事が必要である。

男は女根礼念修法を行うに当たり、仰臥する女性の脚に身を屈(かが)め、腰の辺を両手で優しく撫でながら、太腿に接吻して行く。この時の念じる呪文は、「おんさらばたたぎやたはなまんなのうきゃろみ」である。また、「一切如来の脚を拝み奉る」と、普礼(ふらい)の真言を心の中で唱える。
女性の陰毛の辺から丘の辺までを接吻しながら、次第に下に向かう。臍から乳房へと舌を趨(はし)らせる。このように女体を舌で嘗め上げておいて、女体そのものを如来か菩薩に仕立て上げ、そのように観じとるのでる。こうする事により、女体は如来と一体化し、菩薩と一体化する。
次に、両掌で両方の乳房を優しく揉み上げる。摩擦する時は、絹を触るように静かに優しく、次に巧みなモミモミに入るのである。この時、乳房をもぎ取るように乱暴に扱ってはならない。あくまでも優しく、絹を撫でる如しである。春風が、花の蕾(つぼみ)と戯(たわむ)れるようなイメージで、「浮かせる」という想念が大事である。更に、今度は蕾を口に含み、舌で乳頭を転がすようにする。イメージは何処までも春風のムードである。
 男が乳房を吸うのは、ただの西欧モノのポルノ映画の如き、単なる前戯ではない。ここには、母なる情への哀愁があり、その哀愁に遵
(したが)い、男が乳房を吸うと言う行為に趨るのである。決してこれを前戯に終らせてはならない。これこそが生命養育の根源なのである。
 ここに仏の慈悲の心があり、子に対する母の乳房は、性交時における男根と同じく、「真」であり、「中有」と知るべきなのである。要するに男の真の姿であり、この真の姿に、酒等に酔い痴れて、こうした行為に及ぶべきでない。
 万一、こうした状態で交会に及べば、その天罰は「大凶時
(おおまかどき)」となって顕われる。交会を行ってはならないのに行ったと言う、天罰である。
 先ず第一に、乳房を乱暴に扱えば、人生のよき伴侶は離れて行く。第二に、噛み付いたり、ふざけてこれを行うと、出来た子供は以外と出来がよくない。第三に酒飲に酔い痴れて、出来た子供は精神に異常を来すものが多い。
乳房礼拝が終ったら、唇へと移る。女性の唇に接吻するのは、男性修行者にとっては極めて難所である。女性の唇には、仏と魔物が同居しているからである。女性の唇こそ、「毒天二鼓」が存在する恐ろしき難所なのである。
 しかしこれを知らない、馬鹿な男どもは非常に多い。そこで、「この恐ろしさ」を公開することにする。
 まず、「毒鼓
(どくこ)」の恐ろしさは、強運を招くと言うばかりではなく、毒を塗った鼓であるので、この音を聴いたものは、総て死ぬと言われるものである。
 「毒を塗った鼓」それを打てば、聞く者はみな死ぬという。この恐ろしさは、涅槃経に出ている。また、その教えが、衆生
(しゅじょう)煩悩(ぼんぼう)を殺害することを喩(たと)えて言う場合もある。
 日蓮宗では、折伏
(しやくぶく)の方法として、毒鼓結縁(どっこ‐けちえん)の談が盛んに行われる。この事から考えても、毒鼓の恐ろしさは容易に想像がつこう。
 次に、「天鼓
(てんく)」である。天鼓は、この音を聴く者は「清らかになる」という意味を指す。トウ利天(とうりてん)にあるという鼓のことで、打たなくても自然の妙音を発し、悪を慎ませるという。また、勇気を奮い立たせる鼓である。

 女性の唇から出る音色は、時として毒を吐く時もあるのだ。女性の唇には、「毒天二鼓」が存在する。この事をしっかりと憶
(おぼ)えておくことだ。迂闊には近付けないのである。かつて遊女などは躰は売っても、決して男に唇は与えなかったと言う。これは「天鼓」の清らかさを、何処までも貫き通すと言う心の顕われである。

 一方、女性の吐く「毒鼓」には凄まじいものがある。誘惑したり唆したり、あるいはその一言で、男を夢中にさせ、然も「奔らせる」からだ。歴史上に人物を見れば、男は女に奔らされたという者が非常に多い。上は皇帝から、下は庶民までである。
 歴史上の人物を見れば、紂王
(ちゅうおう)などは典型的な、その一人であろう。
 紀元前十一世紀頃の殷
(いん)王朝の最後の王で、紂王なる人物が居た。妲己(だつき)を愛し、酒池肉林に溺れ、虐政のため民心が離反したといい、周の武王に滅ぼされた。夏(か)の桀王(けつおう)とともに暴君の代表とされる人物である。
 紂王は、まんまと妲己の「毒鼓」に当てられる。妲己は紂王の寵妃
(ちょうき)である。紂王を唆(そそのか)し、淫楽や残忍を極めたといわれる。
 男は、紂王に限らず、時の人物も、正妻や愛妾
(あいしょう)の吐く毒鼓を聴き、女の欲望の為に奔走するのである。

 日常茶飯事に起っている様々な事件にも、女の毒鼓が絡んでいる場合が少なくなく、保険金殺人等の裏には、女の毒鼓の囁
(ささや)きがある。例えば、「あんたの奥さんに多額の保険金を掛けて、事故を装って殺してしまいなさいよ」という愛妾の言や、「今度こそ、あたしを海外旅行に連れて行かないと、本気で別に男をつくってしまうわよ」とか「このダイヤの指輪を買ってくれないと、離婚するわよ」などの正妻の毒鼓である。

 女は、目的達成の為に平気で毒鼓を吐くのである。女が鼻を鳴らし、猫撫で声で摺り寄って来る時は、その裏に必ず毒を含んでいる。
 したがって、かかる恐ろしき唇に接する時は、安易に接吻をしてはならないのである。女の唇の恐ろしさを知らない、間抜けな男は、無理矢理に女から唇を奪う者がいるが、これこそ間抜けの最たるもので、その後のこうした間抜け男の追跡調査をやると、百人が百人、凶運に悩まされボロボロの人生を送っていると言うから実に凄まじいものである。
 斯くして密教房中術を知る知恵者は、まず、「破地獄
(は‐じごく)」の真言を唱えるべきなのである。地獄の苦を打ち破ることが肝心なのだ。
 その「破地獄真言」は、「おん・さんまやかん・まかさんまやかん」である。心でこれを唱え、あるいは無声音でこれを口に出して唱えるのもよし。その上で、女性の唇の中へ舌を入れ、女性の舌を絡めて唇の外に誘い出し、強く吸い付け、そして女性の持つ毒を舌から抜き取ってしまうことである。以外と、口付けはするが、何の為に口付けをするか、知らない男が多い。

 外国のポルノ映画等を見て、恋愛術を展開させる時は、「ああいうふうにするのか」と、単に真似て行っている間抜け男が少なくない。だが、この時真言を知っているのと、そうでないのとでは、後で雲泥の差が出て来る。人生で転んでしまう男の多くは、こうした真言を知らない間抜け男に多い。
 九星気学や四柱推命のような、「気の学問」にこだわる者は、自分の運勢だけを見て自分の運気を占って、吉凶を云っているが、こうした事は微々たるもので、実は自分の守護神は、自分の性器であると言うことを知るのが大事だ。

 また、凶事を脱するには、見よう見真似で、外国モノを真似しても始まらない。西欧モノの「枕事」に答は出ていない。むしろ日本の太古よりの伝統を重んじ、この正しさを認識することである。正しい真言を識
(し)る事である。
 そして、心の中で真言を唱えながら、女性が「痛いじゃないのよ」と悲鳴を上げるくらいに、しっかりと「舌の根」をしごいてやった方がいい。完全に毒を抜き取ってやることだ。
 こうして十分に毒気を抜き取ったら、再び優しい接吻を繰り返すことである。
唇への接吻が終り、女性がうっとりと眼を閉じたら、男は、今度は女性の額に優しく接吻をする。額は、単に「おでこ」にすると言うのではなく、前頭葉(大脳皮質の中心溝と外側溝によって囲まれた前方部)付近に狙いを定め、人体の霊中枢(れいちゅうすう)が備わる松果体と脳下垂体がある「眉間」の部分である。

 以上のようにして、『即身成仏義』に示された「脚
(足)=地」「臍(へそ)=水」「胸=火」「唇=風」「額=空」と、女体に秘められた宇宙玄理である「五天(ごてん)」への「小接吻」が焉(おわ)るのである。


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