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理趣経的密教房中術・プロローグ
理趣経的密教房中術 1
理趣経的密教房中術 2
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夜の宗教・真言立川流
続・夜の宗教 真言立川流
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理趣経的密教房中術 5

緩慢の思いを廻らす。それは循環する。こてまで沈んだものが気泡をともなって浮上してくる。九竅の口を用いて陰陽の気の交換が行なわれる。男女間の気の交換である。陽気の交換を行なう。次に身を寄せ合い、互いの肌から皮膚を通じて温度の交換が起こる。塞いだ口からは津液(しんえき)が舌の上で混ぜ合わされ、舌の「まさぐり」によってその交換が行なわれる。鼻腔と口唇の僅かな隙間から互いの気息(きそく)が交換される。生暖かい芳香が起こり、肺胞を満たす。芳香と体温と体液が徐々に密度を上げて濃縮され、囲繞(いにょう)状態は派生する。陰陽は一つに重なり合う瞬間である。

 この法は「胎蔵界修法」の初伝となり、女性の場合は不感症改造法であり、施せばその後は「ポカポカ状態」が訪れる。夏のヒマワリを想起させる。
 掌が鳩尾
(みぞおち)と下腹に置かれる。最初はそこまでの接触だけである。この「胎蔵界修法」を行なうとその刺戟は体内に無数の手となって疾る。熱感を覚え、あたかも掌で撫で回すような感触が強くなる。そういう感覚を覚えるのである。
 性命エネルギーの増幅であり、この増幅により裡側に蓄
(た)めていた精気をコントロールすれば、病気などの治癒にも目覚ましい働きをするのである。
 逆に、精気を消耗させれば、「胎蔵界修法」は男女とも急激に性命エネルギーが喪
(うしな)われ、健康を損なって、見る見るうちに萎(しお)れていく。これは淫気現象である。生殖作用の浪費あるいは排泄の結果として、精を消耗させ、衰死状態の「早老現象」を起こすからである。
 精は妄
(みだ)りに漏らしてはならない。その人が一生に遣われる「精禄」が定まっているからである。これを乱せば、体内に淫気が発生し、寿命を縮める。
 これが早老現象である。
 そこで、手順を間違わずに、有効に性命エネルギーの増幅と蓄積を図りたい。
 結果として、蓄積された場合、健康増幅の向上がみられる。
 その形容として、肉体に次のような現象が顕われるとしている。特に女性の場合は顕著である。

芽を出したばかりの柔らかい若芽の如く、しなやかで、
透き通った白蝋のように白く、艶(つや)があって凝脂の如く、

(くび)
髪切虫の幼虫(鉄砲虫)のような細くて白い美人の頸の如く、
瓠犀(こさい)に喩えて、美人の、よくならんだ美しく白い歯の如く
蝉の頭部のような広い額(ひたい)で、美しい女の如く、
口許(くちもと)が愛らしくて、愛嬌があって、巧笑の如く、
目付きが涼しく、黒目と白目がはっきりしていて、烱々(えいけい)と輝いている。

 これは閨
(ねや)で、男よりも女の方は悟ることであり、男以上に女は下半身の貴さを発見せねばならない。房中術は「夜の宗教」と言われる所以である。



●還精法

 『不動秘伝』の中には、「還精法(かんせい‐ほう)」なるものが紹介されている。これには、「男女二根の礼拝」および「小周天金剛念誦(しょうしゅうてん‐こんごう‐ねんじゅ)」と、それに「還精法」が挙げられている。
 二根交会の最中に、単なる意識的で、単調なピストン運動を馬鹿の一つ覚えのように繰り返しても駄目であり、実はこの時に最も重要な「玉磨きの法」を推奬していることである。

 男の役目は、生殖のために精子を送り込む天からの光に譬えられるが、女はその精子を受けて育てる大地の役目を果たす。その喩えは、女の下半身が大地であることを物語り、この現実の上に人間界が出現している地球そのものなのである。この大地は、乱暴に、また粗末にほじくり返してはならないものなのである。人命を育む大地であり、花園なのである。有難く合掌して、男は謹んで「玉磨きの法」に精進しなければならない。

 「玉磨き」は、別名「玉兎法
(ぎょくと‐ほう)」とも謂(いわ)れ、此処でいう「玉」とは、クリトリス【註】女性の尿道出口の前方にある小突起の「陰核」であり、男性の陰茎に相当するが、極めて小さく、尿道につらぬかれていない。性的興奮により充血し、勃起し、「陰梃」ともいう。ここは房中術でいう「舌で転がす」ことで喜びの性命エネルギーを放出することで知られる)のことである。
 正上位で交会して、精気が盛んになって来たら、男は単調なるピストン運動を止め、「玉磨き」を行わなければならない。
 つまり「玉磨き運動」を行うのである。縦の腰の動きから、横の腰の動きへと変えるのである。
 これを行う場合は、男は足の伸ばし、躰
(からだ)をまず一直線にする。次に、足の先と床に着いた肘だけで躰を支え、深く差し込んだ男根の根元を、女性の「玉」にピッタリと接触させ、男は躰ごと左右に動かし、次に上下に動かし、この要領で、左右・上下に横の回転を加えて、ゆっくりと「玉磨き」をするのである。
 この場合は、「玉」の上を滑る如く動かして、強弱を加えつつ、刺戟
(しげき)を与え続ける。この刺戟により、女性は大いに感嘆し、密教房中術では、女性は「ア・キャ・ボロン」の断末魔の春声(しゅんせい)を挙げると言われている。

 「玉兎法」とは、月中に兎がすむという伝説から来た言葉であり、月の上で兎が跳ねる様からとったものといわれ、兎が餅を搗
(つ)く様から「玉兎」と呼んだと言われる。こうして「玉磨き」を行い、男女共、精気を循環させるのである。
 また、「金烏法
(きんう‐ほう)」なるものがあり、これは玉兎法に対峙した、密教房中術の秘伝であり、太陽の中に三本足の烏がいるという伝説に由来したものである。【註】秘伝の為、口伝あり)

双身歓喜天像
 さて、還精法は、男のみの回春術
(かいしゅん‐じゅつ)として行うが、密教房中術では男女共が精気を循環させ、女性と共に精気を補い合うと言うのがその目的である。
 したがって、男だけの回春ホルモン剤を貪
(むさぼ)る為に、女体を用いると言うのは邪道である。陰と陽は結合し、この結合によって天地の理(ことわり)があるのであるから、一方的な回春は密教の「平等原理」から外れるものである。

 男女は同等であり、同格である。この線引きが正しく出来て、はじめて「平等」と言うものが生まれるのであって、人間側から検
(み)て、人間を指し、これを平等と称してはならない。人間側から検れば、どこまでも「同格」であり、「同等」である。
 平等と云う言葉は、天地の理から検た場合の平等であり、人間側から検て、平等は存在しないのである。したがって、天理の理から検た場合の平等観が、つまり「男女共通」と言う事になるのである。

 『理趣経』には、「如来は、また一切平等を観ずる所の自在する智印
ちいん/菩薩の智の標示である印)を出生する般若理趣を説き給う」とある。般若理趣は真理を教える道である。真理は天地大自然にあって、一切の平等観から生まれる。大自然の前にあって、人間は平等なのである。この一切平等が、「金剛平等」なる思想を出現させたとも言える。

 「金剛平等に入るは、即ち妙法輪
(みょうほう‐りん)に入るなり。一切業平等に入るは、即一切事業輪に入るなり」と説いている。
 金剛平等とは、密教の真理から検る一切の平等であり、万物は総
(すべ)て一個の輪の如く連なったもので、ここには上下の差別は存在しないと説かれているのである。これが金剛平等の平等観である。
 また、義
(ぎ)平等なるものがあるが、万物の存在や、その因果関係の道理は、その前後に差別はなく、一切が平等であると説く。
 次に、法
(ほつ)平等は、真実の理は、一点に留(つど)まる事なく、常に変化を続け流転(るてん)するものである。これを空間的な平等と言う。
 更に、業平等は、人間の働く行為は、万事左右の別なく平等であると説く。

 このように天地大自然に則した『理趣経』の平等観は、「宇宙、人間および、その他の動・植物、更には原因や、現象の全てが、大いなる輪をなし、連なっているのである。したがって万物は無差別かつ平等である」とする、真理の実体を明らかにしているのである。
 そこで、男の為に、女を利用する還精法は排除されなければならないと説いているのである。『理趣経』の説くところは、性愛とは、「二者合一」ものであると説く。
 二者が一体となる事によって、美快が訪れるものなのである。男女二根の陰と陽が交わり、交会し、その交会によって、美快が訪れるのである。したがって性愛は、一方的に相手側から快楽を貪り奪うものではないと説く。

 愛欲は、いわば贈与のようなものであって、分かち合ってこそ、楽しいのであって、男女の愛情には、双方に異種の満足感が与えられることが原則である。この原則を破れば、人間性を喪失し、愛情は不毛となるのである。そして精神は荒廃するばかりである。
 男根の貴頭部の尿道口には「鈴口
【註】「すずぐち」または「れいこう」あるいは「りんこう」とも)」という、女根から陰の精気を吸い込む、霊的な目に見えない経路が走っている。この鈴口は、膣内奥にある女根の「珠(たま)」と出逢って、大いなる喜びを観じるものなのである。また、龍頭は「喜びの雨を降らす」のである。

 女根の「珠」は、人各々に異なるが、これを備えるのは、何も「梵天母
(ぼんてん‐ぼ)」だけではない。
 但し大小が異なり、こうした龍頭
(りゅうとう)を喜ばせる作用が先天的にないだけである。
 したがって、後天的に訓練する事により、龍頭を喜ばせしめ、亀頭の鈴口から陰の精気を男根に送ることができるのである。
 一方、女根の「珠」と出逢わない性愛は需
(もと)めるベきでない。
 これをやれば、一方的であるばかりでなく、運を衰退させるからだ。この衰退は、運命の陰陽の支配によって、人間を即座に、死に至らしめる事も出来るのである。

 世御赤には、一方的な愛欲の貪りに、同性愛なるものがある。同性愛の殆どは、女性間同士で行われる同性愛よりも、男色により行われるホモの方が非常に多く、これこそが一方的な肉欲の貪りといえよう。
 そして多くの宗教が、男色を蔑視し、これを禁じているのは、アヌス・コイタスが非常に危険であるからである。この危険性について、理解していない現代人は多い。

 人間のアヌス・コイタスは、肉欲の中で最も危険な行為であり、また自然界の行為の中で最も不潔なものである。
 この性行為の穢
(きたな)さは、まず第一に直腸淋病に罹(かか)るという事である。行為者が100%淋菌の保菌者である場合、その相手にも100%の確率で感染する。また、淋菌の保有者でない場合でも、前立腺炎や前立腺癌に罹る確率が非常に高くなる。その他にも陰茎癌や睾丸癌などがある。

 いずれもこうした疾病の疾患は、肛門と直腸の残留している腐敗物が病因を引き起こすわけで、糞便に含まれる腐敗物質の大腸菌の有害な殺菌が男性器の亀頭部に付着し、あるいは亀頭部先端の鈴口から吸収され、日本では古来より
「鉢巻き現象」と呼ばれて来た。
 『理趣経』では、この有害性を説き、陰陽の崩れる事を警告した。
 また密教房中術では、「男色は、女根から精気を吸収することができない欠点を指摘したばかりでなく、陽之気が陰湿化する」ことを危険視した。そして恐るべきは
「鉢巻き現象」であった。

 1970年代、アメリカ・サンフランシスコは「男色の街」として著名になった。そしてこの街では、直腸淋病が急増し、ホモ関係者を震
(ふる)え上がらせた。直腸淋病は急増したのは、何れも男色行為が元凶となり、「鉢巻き現象」が齎したものであった。
 その後、1980年代のなると、エイズ
acquired immunodeficiency syndrome/後天性免疫不全症候群)がこの街で猛威を振るい始める事になる。エイズの初期症状は直腸淋病あるいは直腸梅毒であった。ところが、こうした病気は、ある時期に至ってエイズに病変した。

 現在、エイズは如何なる抗生物質も効果がなく、免疫抗体菌の治療法も確立されていない。現代の黒死病とも言われる恐るべき性病であり、死亡率は100%である。現在、世界には6500万人がエイズ保菌者であるといわれ、そのうち2500万人が、既に死亡している。

 これを『理趣経』の警告や、密教房中術の危険性からに指摘で見れば、まさに神仏は、人間に与えた愛なき性交遊戯に対する業罰
(ごうばつ)であるといえよう。
 コンドームの着用なしにアヌス・コイタスの性交遊戯を貪
(むさぼ)れば、男根の貴頭部の鰓の回りに「鉢巻き現象」の起ることは必定である。
 また男根の亀頭部には尿道口があり、この鈴口より、直腸内に残留する有害な腐敗物質を吸収する事は免れない。糞便の中に残留する腐敗物質は動蛋白が多く残留したものであり、これが鈴口から侵入すれば、病魔に冒される事は確実である。

 況
(ま)して、その後、直腸淋病や直腸梅毒の保菌者が女根と性交すれば、女性側にも100%感染させてしまうのである。そしてエイズの場合は言うまでもない。
 では、コンドーム着用で男色を楽しめば、こうした病魔から逃れる事ができるのか。
 既に男色を貪る事自体が、運命的には“凶”なのである。
 先にも述べた通り、亀頭部の先端には、少し下寄りに「鈴口
(すずぐち)」がある。この鈴口は、霊的な経路があり、ここから陰陽の気を吸収し、体内の肉体ばかりでなく、霊体にも幽体にも、また本体(人間の霊魂を司る主体)にも送り届ける役目を持っている。

 この「鈴口」は“リンコウ”ともいい、「金剛鈴
(こんごう‐れい)」あるいは「宝珠鈴(ほうじゅ‐れい)」ともいう。これは密教法具の一つであり、金属製で、形は鐘に似て小さく、舌と柄とがあって手に持って振り鳴らす法具のことである。決して汚してはならないものであるとされる。それだけに「清らかなもの」であり、「穢(けが)れを寄せつけてはならないもの」なのである。

 これは、物理的な
「鉢巻き現象」が起らなくても、霊気を吸収する現象であるから、コンドームの有る無しにかかわらず、男色相手の男から、忌わしい陽気を吸収してしまうのである。陽気の陽圧は二倍となり、陽に極端に傾く事がある。そして衰運期にもかかわらず、自然の摂理を狂わせた業罰(ごうばつ)として、一気に陰陽の支配を狂わせ、“凶運期”に陥れるのである。この凶運期の最たるものが、一方でエイズであり、直腸淋菌や直腸梅毒でなかったか。
 総べて、一方的に相手から快楽を貪った業罰である。

 『理趣経』は、自然の摂理に遵
(したが)い、「万物は平等である」と説く。また、「無差別」と説く。真理の実体は、平等であり、また無差別なのだ。
 そこで、一方的に快楽を貪る愚を禁止し、この危険性を警告しているのである。あるいは女は男の道具であってはならないと説くのである。
 密教房中術は、一方だけがこれを熟読し、実践しても何もならない。男女共に、修法を研究しなければならないのである。



●交会の論理

 『理趣経』ならびに密教房中術は、陰と陽を分けて説くが、これは何も二元論に徹して説こうとするのではない。一が分れて、二になっただけに過ぎない。男女二体は、「一
(いつ)」なるものの存在を解き明かし、これを証明する為の立論に過ぎないのである。
 この「一」なるものが、男女二根の根本であり、人間における生死に関しても、それは表裏一体の一なるものである。

 生きとし生けるものは、根本が一でなく、始めから男女別々の二元であったら、「犬」対「猫」のような関係になり、結局、性交する事も出来ないのである。根本なるものが「一」であるからこそ、二根は交わる事が出来、その交わりにおいて、子孫の生成が可能ならしめるのである。
 また、生と死が二元であったら、生と死は異質の別物であるから、生物は死なないはずである。生を好み、死を忌
(い)み嫌えば、死など訪れないはずである。
 万物の生成は、まず、「一」なるところから始まる。一が二つに分かれ、二つが四つに分れる。

「一」こそ「大日」であり、宇宙と一体の光明を齎す大日如来の姿である。

 交会
(こうえ)の論理は、「一」なる宇宙の力のより、生物的に、これを観(み)た事に他ならない。そしてこの論拠の本旨とするところは、「一」なる宇宙神を求め、厳しい修行を重ねるからこそ、人間の目的とする成就を充たしていくのである。
 密教房中術は、決して難しいものではない。頭を抱えて深刻振る必要はない。密教房中術と雖
(いえど)も、その目的は、衆生救済がその目指すところである。

 そして、仏像の一覧表である曼荼羅
(まんだら)を見れば、仏の故事や利益や霊験が分かろう。胎蔵界曼荼羅には414尊が存在し、金剛界曼荼羅では、羯磨会(かつまえ)だけで、1061尊といわれ、三昧耶会(ざんまや‐え)では73尊、微細会(みさい‐え)では73尊、供養会(くよう‐え)では73尊、四印会(しいん‐え)では13尊、一印会(いちいん‐え)では1尊、理趣会(ししゅえ)では17尊、降三世会(ごうさんぜ‐え)では77尊、降三世三昧耶会では73尊である。

 その他に、密教には独特の規則や教戒があり、これを「儀軌
ぎき/密教の儀礼・行法や図像に関する規則。また、それらを記述した経典)」という。
 更には、密教には法具がある。
 こうして考えると難しい、難解であると考えるのも当然であろう。ところが、密教の教義は「二而不二
(にに‐ふに)」「入我我入(にゅうが‐がにゅう)」「梵我一如(ぼんが‐いちにょ)」である。
 特に、「入我我入」は、如来の身口意
(しんくい)の三密が我に入り、我の身口意の三業(さんごう)が如来に入り、一切諸仏の功徳を、わが身に具足することを指し、仏と自分は一体となる境地を説くものである。

大日如来を顕わす種字

 その一体なる、「一」を絶対的存在とする大日如来
(だいにち‐にょらい)とし、この如来は、太陽神の恩恵を持つものである。この恩恵こそ、万物の兄弟姉妹であり、ここに平等思想が働くのである。こうして考えて来ると、極めて明確で分かりやすい思想と言えよう。

 密教房中術は、日月
(ひつき)を守護とし、陰と陽、男性原理と女性原理、更には陽の本尊である不動明王(ふどう‐みょうおう)、一方、陰の本尊である愛染明王(あいぜん‐みょうおう)を主尊とするものである。日月を生んだ大宇宙、大自然の生殖力は、総べて絶対神が生成した賜(たまもの)である。この絶対神こそ、密教そのものなのである。

 大日如来を中心とする真言宗から、邪宗として蔑視された真言立川流まで、この絶対神として崇
(あが)める神仏の違いによって誤解されたに過ぎず、元を正せば同根である。特に真言立川流は、男女の交会を説くから邪教と看做(みな)され、また、即身成仏の在(あ)り方に宇宙観の相違を観(み)たのである。
 阿字観
(あじ‐かん)に、「即身成仏の教え、ひとえに真言密教より出でたるも、阿字にとどめたり」と、大日信仰を通過し、更にその奥に至った宇宙生殖力を密教と共に教授しているのである。真言立川流によれば、「阿字は、これ三世諸仏の妙体にして、一切の衆生の本性なり」と説いている。これこそ、まさに宇宙観に到達した真理ではないか。

 また、阿字観の体験を通して、二根交会をする事が分かったとしても、老いて、実際に交会不能となったら、密教房中術は消滅しないかと言う人が居るかも知れないが、男女二根の交会とは、人間の歴史が刻まれて行く限り、永久
(とこしえ)に続くものである。
 男女の交会の姿は、まさに「光」であり、清らかなものである。愛情の本質が光である。
 光である以上、清らかさを失わない。男女陰陽の合歓は、子孫を誕生させるだけでなく、我が身を仏として誕生させる唯一の手段となる。
 真の歓喜とは、「東西に求め、南北に訪ねるに非
(あら)ず。自ら身中に具足(ぐそく)するところ。本有(ほんぬ)常住五智の如来なり」と、阿字観は人間の本質そのものを説いているのである。



●欲・触・愛・慢の四菩薩

 男女の和合は、平等の愛情に支えられた清らかなものである。しかしこれが、ただ向う側の対岸にあると言うのでは何もならない。進んで受け取り、我ものにしなければ、何の意味も持たないのである。本当の智慧
(ちえ)と言うのは、自分が行為に顕わしてこそ、その価値を見い出すものである。

 人間は、誰でも平等に、自然界の清涼の智慧の中にいるのである。
 「もし、一念を起こして、我はこれ凡夫
(ぼんぷ)なりと言わば、三世の諸仏は謗(ぼう)ずるに同じ」とあり、この事は文殊菩薩の儀軌(ぎき)に記されている。
 したがって、一念でも、自分は凡夫だとか、値打がないものとか思うと、それは生まれ変わり、死に変わりの仏を誹
(そし)る事になるので、一念に、念ずるだけで重大な罪を起こすと戒めているのである。
 総ては清涼の智慧の中にある。こうした心でこの世界を眺
(なが)めれば、その月明りの月の中には、そこで行われる男女の交会が、どんなに地上の言葉を使っても言い顕わすことができないほど、清らかなものであると言う事が分かる。これこそが、“金剛さった”という形で顕わされる愛情表現なのである。

『理趣経』曼荼羅の現代解釈図。【註】図中の曼荼羅では慢金剛と愛金剛が入れ代わっているのに注意)図中の曼荼羅は般若理趣ならびに妙適清浄の教えを説いている。

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 四つの愛情表現は、欲・触・愛・慢である。

欲金剛菩薩 愛の矢が飛ぶ言う時の清らかな境地を司る。その象徴は男根の亀頭と雁の張り。
触金剛菩薩 触れ合うこのと清らかな境地を司る。その象徴は掌から放出される霊的なる霊気もしくは、人や物が発する霊気ないし独特な雰囲気。耳許で囁く言葉もそれに準ずる。
愛金剛菩薩 愛し合い、霊的雰囲気の縛られる時に清らかな境地を司る。その象徴は霊線放射による収縮と吸気による取り込み。吸い付くような意識。
慢金剛菩薩 総べて自由の主人となる時の清らかな境地を司る。その象徴は解放感であり、自由に飛び回る花を訪問する蝶か蜜蜂。

 中央に
“金剛さった”を配置し、これに対し、東方から登場してくるのが欲金剛菩薩である。
 中央の“金剛さった”の円輪に接し、東方の月輪の中の蓮華座の上に、愛の矢を今直ぐ放つぞという恰好をし、愛欲も人間も、そのままの姿で肯定している。そこには道徳的な逆説は総て退け、箭
(や)をシンボルとして登場しているのである。

 南方からは、触金剛菩薩が中央の“金剛さった”の月輪に接する蓮華座の上に、両手を胸の前に交えて抱きかかえ、心の裡側
(うちがわ)に秘める欲望を全身でぶつけて初めて分かるのだというポーズを取り、両方の手で拳を握っている。躰ごとぶつかるのが触金剛菩薩のシンボルである。

 西方からは、愛金剛菩薩が中央の“金剛さった”の月輪に接する蓮華座の上に、両手に一本の幢竿
(はた‐ざお)を捧(ささ)げ、その上に大きく口を開けた鯨(くじら)を載せて、「あっという間に船ごと飲み込んでしまう」ポーズを取り、愛に縛(しば)られたスラータの心を瞬間にもの込んでしまう恰好で登場する。

 北方からは、慢金剛菩薩が中央の“金剛さった”の月輪に接する蓮華座の上に、愛楽に満ち足りた心を嫌が上でも高ぶらせ、肩を怒らし、左右の握り拳を腰に突き立て、威張って高慢のポーズを取り、高慢をシンボルとして登場する。あるいはこのポーズは、男根の怒張かも知れない。

 中央の“金剛さった”の心は、欲・触・愛・慢の心をシンボルとして、各々を高らかに謳
(うた)い上げているのである。
 これは、例えば、西方の愛金剛菩薩が鯨の幢竿を捧げて、西方から登場する時は、西方の愛金剛がただ独り西方より登場するのではなく、西方の愛金剛がシンボルを捧げて出てくる時は、いつも中央の“金剛さった”として出て来るのである。これは“金剛さった”という神仏がいて、欲・触・愛・慢の四菩薩を支配しているのではなく、“金剛さった”は、いつも暖かな欲・触・愛・慢の四菩薩として、東・西・南・北の四方に出て来るので、東・西・南・北の四菩薩は、常に中央の“金剛さった”であり、中央の“金剛さった”は、常に欲・触・愛・慢の四菩薩であって、その関係は断絶する事がないとしているのである。

 更に曼荼羅の教えるところは、愛は色彩であるということを示し、五方向は愛の色彩であると説く。中央に「白」、東方に「青」、南方に「黄」、西方に「赤」、北方に「黒」を配置する。
 曼荼羅のスタートは東方からである。東の空が白け始め、青味が帯びて来ると、夜が明け始める。深い青こそ、天空の夜明けの始めである。全ての物は此処から始まり、蘇
(よみがえ)り、スタートする。
 曼荼羅では、この方角を深青の「青」を当てて、勇気と決断を顕わしている。これは愛欲の矢がすばしこく走る欲金剛の方角であり、総ては此処から始まるのである。

 次に、南方は正午の太陽の直下にあって、人類が向かう中心の位置はこの方角である。そしてこの方角を「黄」で顕わす。
 この時間帯は万物の実りの時であり、太陽の慈悲を受ける時である。総ての交易も、経済生活もこの時であり、東方が勇気と決断を顕わしているのなら、南方は実りと富に向かう方角である。触れ合う事は清らかであると言う、触金剛の境地は、南方にいて理解されるのである。
 西方の方角は「赤」で顕わされる。一日を照らし続けた太陽の激しい光も、太陽が西に傾く頃、その光を和
(やわ)らげてくる。この時刻に、一時(ひととき)の安らぎを覚える。そして再び、人間生活を見い出す時の訪れを知るのである。これが黄昏時(たそがれ‐どき)から、夕刻に掛かる時間である。

 「愛に縛
(しば)られる事は清らかである」という、愛金剛の境地の方角であり、この方角は「赤」または「桃色」であろう。一日のうちで愛情を開始する最も満ち足りた時間となる。愛情を顕わす赤の蓮華のシンボルは、観自在菩薩(かんじざい‐ぼさつ)の方角とし、また西方極楽の阿弥陀如来(あみだ‐にょらい)の浄土をイメージしている。

 北方は、一日のうちで終わりを告げる方角である。暗黒の夜の訪れとともに、万物は沈静の時に向かう事が出来る。万物が沈静するのは、同時の「黒」をシンボルとする方角でもある。この方角は、全ての物の結果を表現する方角でもあり、密教ではこの方角を「仏の悟」の方角としている。
 「全ての物は自在の主人となり、これに至ることは清らかである」という、慢金剛の方角は北方に向かうことにより理解され、男女の和合が一つの愛情表現として、最高頂に達したことを意味している。


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