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理趣経的密教房中術・プロローグ
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夜の宗教・真言立川流
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理趣経的密教房中術 7

まさぐり……。それは軟体動物のような触手をもって、互いが触れ合いつつ、滑らかな行動をとる。やがて相手の気が流れ込んでくる。入り込むめくして相手の穴に探し合う。人には九竅(きゅうきょう)あり。女人の場合は十竅である。まさぐることで、双方は気を送り込むため、穴を探し合うのである。
 その一方で、鼻腔を通じての呼吸の往復により、陰陽の気は交わりをみせる。


●男根と言う有り難い“守護霊さま”を礼拝せよ

 『理趣経』では、欲望はありの儘が最も清らかであると言う。しかし、欲望を剥き出しにする事は何処にも説かれていない。欲望を大きく偏らせれば、その拮抗を失いからだ。拮抗を失った状態に、男根のインポなる現象がある。

 人間は男女各々に陰陽を顕わし、男たる陽の中にも陰が存在している。しかし陰は陽と拮抗を保ちながら、男自身を形成しているのである。この男が拮抗を失えば、インポが発生する。インポは、正しくはインポテンツ
(Impotenz)という。
 陰茎の勃起不全、または不能のため男子が性交不能に陥った状態であり、脳脊髄障害や睾丸機能不全、あるいは精神的および心理的原因によるものとされる。

 房中術では、この解消法の秘法が伝えられている。これは「不動尊像隠形の呪文」といわれるものである。

  (オン・キャラ・カンマン・タラ・タウン・ハッタ)

 まず、「おん・きゃら・かんまん」と憶
(おぼ)えて、繰り返し自然に唱えられるようにする。
 床の上に横になり、下半身をリラックスさせ、仰臥
(ぎょうが)する。仰臥した床の上は金剛界の修法壇(だん)であり、此処に横たえるのは、荘厳なる寺院での中にいるのと同じであり、厳粛(げんしゅく)を旨としなければならない。呼吸を整え、まず吐気(とき)から始める。静かにゆっくりと、重たく吐気を吐く。吐気は、重たく吐き出すと言うことが注意点である。

 次に、総てを吐き終わったら吸気に入る。吸気は、同じように静かに、軽く、後頭部に天の気が抜けて行くように徐々に吸い込んで行く。軽く、軽くをイメージして、とにかく軽く吸い込む事である。これを交互に5分間程行う。
 呼吸を整えた後、両掌を内股から足の付け根まで静かに撫
(な)で、次に臍(へそ)の辺りから陰毛の辺まで繰り替えし撫で下ろし、撫で上げる。
 この行為は、仏に水を備えたり、線香や燈明や花を奉
(たてまつ)ることと同じで、自分の肉体を神聖化する行為である。また、香炉に香を炊き、以上の行為をして躰を浄めると効果が大きい。

躰を浄める為に、香を炊くと効果が大きくなる。

 これは仏に対する供具の作法と同じであるからだ。
 更に、下腹部の安定を観じたら、左手で男根を軽く握り、右手で会陰
(えいん)部を撫でる。目を軽く半眼に閉じ、精神を統一しつつ、会陰部をゆっくりと撫で上げるのである。会陰部を撫でつつ、時には睾丸に触れ、会陰部から睾丸、睾丸から会陰部と撫でながら、柔らかな刺戟を与え続ける。
 但し、睾丸を強く揉んだり、会陰部に強い刺戟
(しげき)を与えてはならない。これをしてしまうと、周囲の邪気や外邪を呼び込んでしまうからである。

 さて、両手で男根と会陰部と睾丸のそれぞれを摩
(さす)りつつ、精気が充満して来たら、握っている左手に精気を充分に吸収させ、男根を離し、握り拳を作って、これを「女握(めにぎ)り」にする。

女握り印 不動剣印

 女握り
(拳の人指し指と中指の間から拇指の頭を出し、ここを強く突き出す)は、陰陽道の「火水之印(かみのいん)」であり、基本的な印契(いんげい)である。
 この時、左手が離れた男根を右手で、やや強く握る。そして「おん・きゃら・かんまん」の呪文を唱える。

 インポ、半勃起、早漏、遅漏、夢精などの男性器に対するしっかりとした認識と自覚さえあれば、こうした病的な状態からは自然治癒して行くものである。
 そして男根に力を取り戻し、勃起を伴ったら、次に「不動剣印」を作り、これは左手の剣印が右手の鞘
(さや)に治まった状態を顕わすものなので、左手の剣印を握っていた鞘から抜き、男根を剣印に見立てて、今度は男根を握って右手の鞘におさめる。

 男根に力が籠り、完全に勃起したら右手の鞘を男根から抜き、亀頭部の上に被せて、「不動尊像隠形法」は終了する。そして自分の男根をよく凝視し、次に礼拝する。
 この凝視と礼拝は、性神系をコントロールする働きがあり、聖域である神聖な床に横たわるとき、常に凝視を礼拝をして、自分の精気に大して自信を付けて行く事である。
 この自信は、自らの魂を育み、また人生を開運させる為の大きな守護霊となるのである。

 昨今の世間では、「自らの守護霊を持て」などと囃
(はや)し立てているが、守護霊と言うものは自分の外にはなく、自分自身の裡側(うちがわ)に備わっているのである。
 また、人生を生き抜いて行くうえで、盛運を得ようとするならば、男子なら、自分の男根の起立を自覚できてこそ、これが生きる為の原動力になるのであって、インポ、半勃起、早漏、遅漏、夢精などの病的状態にあって、どうして開運が見られるであろうか。

 まず先決問題は、自分の“守護霊さま”を病的な状態から解放させることであって、男根が起立不完全では、盛運など望めよう筈
(はず)がないではないか。
 いま自分が衰運と観
(かん)じているのなら、まず、自分の性器を眺(なが)めて、その状態がどのような症状をしているか確認するべきである。
 もし、萎
(な)えたような状態であるなら、運勢も萎えたような状態であり、これでは人生の開運は覚束(おぼつか)ないのである。運気が低下しないように鍛練をする必要がある。緊急の対処策として男根をよく洗うことである。恥垢は雁に付着してもならないし、亀頭ならびに尿道尖端の裏部に僅かな臭いがあってもならない。
 運気の低下している人の男根は、異様に臭く匂うものである。一つには排尿時の切れの悪さにもある。
 男根陰部に貌
(かお)を近付けて、その男に匂いがあるなら、そういう男は避けた方がいい。運気が低下し衰運期に入っているからである。

 こう言う人間と交友を持っていると、自分の運気まで持って行かれてしまう。女性も付き合う相手としては不可であろう。顔かたちよりも臭いにおいて選択すべきである。既婚女性で、自分の亭主が「匂っている」状態なら仕事の上で恐らく失敗するであろう。
 要注意として「遣り過ぎ」も匂うものである。身体的特徴や顔相観から判断すれば、筋肉が弛んでいることである。肌にも艶がなく、特に貌は目の下に隈
(くま)が出来ている男は要注意である。男同士の友人関係も凶であり、男女の恋愛関係も凶である。DV(ドメスティック‐バイオレンス)などに趨(はし)る人間は、この種属の男は多いようだ。
 この臭いは、また「霊臭」でもあるので要注意である。男根に魔羅
(まら)が取り憑いた状態である。魔羅とは、修行を妨げ、人の心を惑わすものであり、仏道では釈尊の成道(じょうそう)を妨げようとした魔王の名であるからだ。
 魔羅を祓う第一は「よく洗う」ことである。

 精力減退、不完全勃起、性欲過多、異常性腺
(せいせん)刺戟、異常性欲などは衰運の最たるもので、このまま放置すれば、凶運を自分に招き寄せたような状態になり、何を遣(や)っても旨く行かないであろう。魔羅の仕業である。
 勃起不全または不能のインポも困ったものであるが、逆に精液が溢れ過ぎて異常性欲を感じるようであっても困りもので、年から年中、動物が発情している状態も、極度に運を悪くするので、要注意である。
 こうした悩みを吹っ飛ばし、強運を呼び込もうとするのであれば、まず自分の男根をじっくりと凝視し、健康か否かを確かめ、起立可能か否かを確認すべきである。しかし起立可能だか多と言って、無駄な精禄の浪費は行ってはならない。

 運が良い、運気に勢いがある、力が漲ぎっている、事が順調に運ばれると言う状態は、自分自身の男根が「健康」であるということだ。健康男根なくして、運勢など強力にはなり得ず、とにかく自分の周りから災いを取り除こうと考えるのなら、男女とも隠形法に徹し、自分の性器の凝視と礼拝から始めるべきである。

 自分の性器は、自らの守護神である。この“守護霊さま”が、力なげに萎えていては強運など覚束ないのである。男根に力がある事は、守護神が健全に作動していると言う事であり、力があるとは、起立が完全であると言う事なのである。
 かつて明治大正時代における、戦前の偉業をなした“時の秀才”と言われた連中は、事に当るに際し、自分の男根を凝視し、心より礼拝して、その起立具合で自分の“守護神さま”に御伺いを立てたと言う。

 商談交渉でも、内外の外交でも、また入学試験や登用試験に際しても、男根が不完全な起立であれば、成就しないと諦めたそうである。ところが男根・守護神に力が漲
(みな)ぎり、健康ならば、物事は総て成就すると自信を持ったそうである。
 守護霊は、自分の背後霊だけを言うのではない。先祖の祖霊は、自分の男根に鎮座しているのである。この鎮座する有り難い“守護霊さま”を、無視して、霊界だの、幽界だの、また、高級霊などと気勢を上げても負け犬の遠吠えであり、まず、自分の裡側に鎮座する目に見える“守護霊さま”を礼拝すべきなのである。



●女根を司る“愛染明王さま”の秘法

 既に述べたが、女根は愛染明王の化身である。女性の肉欲は男性よりも難解であり、複雑であるからだ。したがって男に比べ、女性は肉体的な感覚も、性欲から受ける快感も、男に比べて複雑な上にズレ易く、この誤差が、時として、早漏男や不完全勃起男から、不感症に陥れてしまうのである。
 そして、早漏男や不完全勃起男に、霊肉共に歪
(ゆが)められてしまうと、歪(ひず)んだ女性の「性」は中々、もとの状態に復元し難い難解な問題を抱えている。

 多くの仏教や宗教は、人間の愛欲を穢
(きたな)らしいものと否定するものが多い。愛欲は、心の迷いと説く仏教宗派も少なくない。
 しかし『理趣経』では、そう考えない。愛欲こそ、清らかなものはないと説くのである。愛欲から起る心の迷いである煩悩
(ぼんのう)が、即菩提(そくぼだい)であり、涅槃(ねはん)であると説くのだ。愛欲に塗れ、愛情に縛(しば)られ、そうした心の純粋さこそ、迷いから解き放たれた本性(ほんしょう)であり、この本性がその儘(まま)悟りに繋(つな)がるとするのである。

 また、密教房中術でも、「淫欲即道」と教え、愛染明王こそ、愛欲の象徴であると説くのである。
 明王とは、神仏に通ずる呪文をもって、一発で御利益を授ける問答無用の“仏さま”で、そこには論理も倫理も存在しないのである。
 多くの宗教は、愛欲や愛情を長い間、毛嫌いして来た。こうした情念は心の迷いであると一蹴
(いっしゅう)して来た。約二千年以上に亘(わた)り、性欲は悉(ことごと)く否定されて来たのである。これこそ、宗教家や道徳家が抱える大きな矛盾ではなかったか。

 この思想は、念仏宗に多く見られ、一念また十念阿弥陀仏と念じさえすれば、極楽に連れて行ってやろうと、唆
(そそのか)し続けたのは念仏宗であった。そして、阿弥陀仏は極楽から念仏宗の方へ引っ越して来ているのだから、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、「極楽往生出来る」と豪語したのは法然上人(ほうねんじょうにん)であった。
 更に法然上人は、人間の欲望と言うものは、生きている限り骨のズイまで染み込んでいるので、抜けないのだとも教えたのである。
 そして人間はこうした煩悩によって心に迷いが生じ、特に愛欲などは心の迷いであり、これを駆逐
(くちく)するべき媒体と決めつけたのである。結局、法然や真鸞(しんらん)は、極楽浄土を民衆の心の中に造り出す為に、地獄をも造り出し、地獄に墜(お)ちたくなければ心の迷いを取り去り、一心に「南無阿弥陀仏」と、唱える事を強要したのである。

 「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、極楽に行けるのなら、これこそ手軽な真理だと民衆は食い付き、念仏宗に帰依
(きえ)して行くが、結局こうした画策は、民衆から仏教を取り上げ、ひと握りの僧侶が、仏教を我が物顔に独占したに過ぎなかった。

法然や真鸞がつくった地獄絵の物語。

 法然も真鸞も、自らは聖者のように振る舞った。異口同音にして、宇宙の大霊だとか、極楽浄土だとか、巧妙な逃げ道を造り出して民衆を騙
(だま)し、自分自身が持つ肉体は、非常に穢(きた)いものもだと教え込んだ。
 肉体を不在にしておいて、一方で御仏
(みほとけ)の道だとか、霊魂だとか、言い繕(つくを)って、民衆から肉体を引き離し、「忘れられた肉体」を造り出して来たのである。

 更にお節介にも、「五欲
(ごよく)」だとか、「五塵(ごじん)」だとかいう悪名高い仏教用語を造り出し、民衆の目を見事に誤魔化したのだった。
 五欲は、五官である、眼・耳・鼻・舌・身の五つを指し、五境は色・声・香・味・触に対する欲望だと決めつけた。これを「感覚的欲望」としたのである。また、五欲に対比させて、財・色・飲食・名誉・睡眠を求める欲望も五欲に加えた。

 五塵に至っては、衆生の本性を汚す、色
(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)の五種類の対象を掲げ、この五つが人間を地獄の陥れるとしたのである。何と罪深い事か。
 仏教、儒教、道教、キリスト教、また仏教の中の念仏宗も、宗教と言う社会区分については同じ物である。しかし、一人の個人の中に於ては、その信仰により、形成される中身はまるで違うものになる。この「違い」が、また「真諦
(しんてい)」であり、「俗諦(ぞくてい)」となる。

 信仰を持つ場合、「真諦」と「俗諦」の違いを知らなければならない。
 日本に数多い信徒を持つ念仏宗達が、法然や真鸞
(しんらん)を視(み)て「立派だ」と感じるのは、俗諦の中においてのみである。つまり仏教が、ある宗派を信仰をする民衆を集め広めて、その事により、某(なにがし)かの御利益を授けると言うのは、多くの場合、俗諦を用いての画策であり、その奥にある真諦には手付かずの儘(まま)、放置している場合が多い。

 真諦を放置し、民衆不在の俗諦を説いても、それは単なる効能書を読み上げているに過ぎない。歴史的に視
(み)て、念仏宗が当時の人々に、潤いを与えたと言うのは、俗諦の範囲に於てのみである。法然や真鸞が、俗諦のみを広めた為に、最も大事な、真諦と言うものを民衆に説き与える事は出来なかったのである。

 俗諦の構成基準は、極楽浄土に対峙
(たいじ)した六道輪廻(りくどうりんね)であるから、その六道の中で、最も極楽浄土と対峙するのは地獄界の存在であり、この構成が俗諦基準で説かれているのなら、どんなに這(は)い上がっても、人間界止まりで、六道をいつまでも堂々回りしている事になる。これが俗諦である限り、どんなに修行や陰徳(いんとく)を積んでも、この圏外には一歩も出られない事になる。六道の圏外に一歩も出られない事を、仏道では「無間地獄(むげんじごく)」という。
 真諦を置き去りにして、俗諦のみを後生大事に説いた念仏宗の、法然や真鸞は、この意味で地獄の墜ちた事になる。

 さて、密教は人間の愛欲をあるが儘
(まま)に受け入れ、然(しか)もそれを清らかなものとして説く。その清らかなものの象徴が愛染明王である。六本の手は各々に鈴、五鈷杵(ごこしょ)、弓、箭(や)、蓮を持ち、六本目の手は拳を握っている。月輪中の蓮華座の上に座し、宝瓶(ほうびょう)の上に乗っている。
 宝瓶は、貴重な水を入れる瓶の事であるが、愛染明王の坐る宝瓶は男の精液を入れる膣であり、また、胎児を入れておく羊水である。併せて、子宮であり、女性そのものを表現したのが愛染明王である。

 尊像の赤は、愛欲を示す赤であり、女根内部の色でもある。左右に分れた六本の手は、男を迎え入れる為の大小の陰唇を開いた女根を顕わしている。手に持つ五鈷杵、箭、拳は男根の表徴であり、弓、蓮、鈴は女根の表徴であり、陰陽を備えているのである。
 このように尊像全身が女性の性を形作り、セックスの塊
(かたまり)が、また愛染明王なのである。



●愛染明王隠行法

 愛染尊像の隠行法
(おんぎょうほう)の呪文は、

  (ノウマク・サンマンタ・ラガ・キャンアン・ソワカ)

 この隠形呪文を唱えながら、花が咲き乱れている楽園をイメージし、胸の辺で合掌
(がっしょう)をする。その後、掌を乳房へと移動させ、静かに上下に揉(も)み解(ほぐ)す。やがて、乳房から下方へと撫で下ろしつつ、全身に暖かい血流を感得する。
 次に臍下から、若草の辺まで手を撫で下ろし、股
(また)の付け根、太腿(ふともも)へと優しく撫で下ろして行く。この場合、揉(も)むが如く行うのがポイントであり、こうする事により、腰の部分に暖かいほんわかとした温もりが顕われるのである。同時に、腰の部分は知らぬ間に、ひとりでに揺れ動くのである。

愛染明王

 これは充分に肉体が温まり、丹田
(たんでん)に陽気が発生した事を物語っているのである。更に左手を女根に滑らし、会陰部から摩(さす)り上げるのである。
 但し、情動が起り、指を膣内の奥に差し入れたくなったら、その左手の上に右手を重ね、隠形
(おんぎょう)の呪文を唱え、浮ついて動き回る情動を抑えなければならない。息を静かに行い、湧き上がる淫欲を抑えねばならない。

 この状態は『赤白成仏身経
(せきびゃくじょうぶつしんぎょう)』にも記されており、「陽気なくして陰気さかんなれば、陰火を生ず。陰火さかんなれば心身を滅す」とあり、女性が自分の指を男根代わりに掻(か)き回したりすると、陰火のみが強くなって、心身共に狂わし、畸形(きけい)を作り、大事な宝瓶(ほうびょう)を傷つけると厳重注意を行っているのである。

 春水の溢れは、人各々によって異なる。特に女性の場合は、この差が激しく、多くは先天的な遺伝による場合が多い。したがって性欲にも強弱がある。
 性欲が強く、こうした情動に動かされ、抑えられない時は、まず、ゆっくりと両手を重ね合わせ、呼吸を整えることだ。また、腰が跳
(は)ねる場合は、ヒステリー現象を起こし易く、腰骨の処には過去世の因縁の業が固まっているので、この扱いを充分に気を付けなければならない。
 情動に任せて、腰の跳ねるのをそのままに放置したり、呼吸を整えずに放置すれば、ヒステリックな情欲が湧
(わ)き起こり、此処に横たわっている「眠れる蛇」を起こす事になるので、この因縁は湧き立たせてはならない。

 昨今では統合失調症と言う精神分裂病やヒステリーを含む神経症などは、腰骨の付近に先天的に鎮座する「眠れる蛇」の扱いを間違ったからで、これを間違ったまま放置したり、畸形な習慣付けをすると、「眠れる蛇」は或る日を境に、突然、背骨を駆け上り、頭部に至って爆発するのである。「神
(しん)」を破壊するのである。
 「眠れる蛇」は、普段は静かに腰骨の付近で横たわっている。それを、いたずらに揺り起こし、情欲を起こさせると、眠れる蛇が猛威を振るうので要注意である。

 「眠れる蛇」は、普段は骨盤の中に仕舞われて横たわり、眠ったままになっている。しかし、「眠れる蛇」は因縁を含んで横たわっており、その過去世の因縁の業
(ごう)が溶け出し、そのことで「眠れる蛇」が目覚めれば、脊髄(せきずい)の霊的な経路を通り、背骨を一気に駆け上がり、脳の中で爆発するのである。
 では、なぜ脳に至って爆発するのか。
 それは先祖的な因縁の業が「眠れる蛇」に隠されているからだ。

 人間の業
(ごう)と言うものは、行為と言う行動の中に顕われる。
 愛欲も人間の行為に他ならない。男でも、本体が女であれば、陰火を生ずる事があり、陰火が盛んになれば、骨盤に眠る蛇を、因縁が溶け出す事により、起こしてしまう事になる。精神を病む多くの人は、男女とも、この「眠れる蛇」の仕業で心身に大きな影響を受け、精神を大きく狂わせてしまうのである。「眠れる蛇」が横たわっているタイプは、次の二つの場合である。
 一つは肉体が女で、本体が女。もう一つは肉体が男で、本体が女。このタイプは何
(いず)れも本体に女を持ち、「眠れる蛇」が横たわっている。

 したがって、本体が女の場合は、ヒステリックな情欲に心身を狂わせ易いので、これに充分に注意を払い、情動が起った時は、まず、呪文を唱え、陰火の燃える火を鎮
(しず)めていかなければならない。
 また、摩擦する時は、掌に生物電流が生じるので、それが女根のエネルギーと作動し、『如宝抄
(にょほうしょう)』には「陽風而(しか)して春水を動かす」とあるので、激しからず、弱からず、然も生命力を身体に宿るようにして、それでいて「眠る蛇」を覚醒させない事が大事である。

 こうしたイメージを作る時、淫乱イメージでは益々狂いが生じるので、愛欲と淫欲の違いは異なる事を知らねばならない。
 繰り返すが、『理趣経』には、「愛欲は清らかなものである」と説かれている。だが、淫欲が清らかとは一行も書かれていない。
 この違いを充分に把握する事だ。これを充分に理解しなければ、やがて因縁が溶け出し、「眠る蛇」を覚醒させる事になる。この蛇は背骨を一気に駆け上がり、脳で爆発するから恐ろしい。爆発後は、精神障害者の生活が待っている。こうした危険は是非避けたいものである。

 したがって『理趣経』に書かれている「愛欲は清らかなものである」のイメージ作りをトレーニングしなければならないのである。
 『理趣経』は、「愛は恋である」と説かれている。現代では余りにも信じ難いように思う人が多いであろうが、愛は、もともと恋であった。
 真に恋する者は、純真だったわけである。純真無垢な感情の表象が恋であり、淫乱や肉欲は含むものではなかった。恋こそ、愛欲の中で、清らかで、情緒豊かな体表現であると説かれているのである。

 恋は燃え上がる情念の炎であり、死を賭
(と)する生命の輝きであり、純粋なる、清らかなる讃歌であった。
 ところが、現代ではこうした讃歌は殆ど見られない。老いも若きもヒステリックな淫欲に耽り、情念を剥
(む)き出しにして、性交遊戯に趨(はし)る。その遊戯的な恋愛ゲームに、もはや純粋さなど存在せず、性の快楽を奪い合い、貪(むさぼ)り尽くす事が愛情表現であると誤った認識を持っている。快楽ゲームや、スポーツセックスの中に、純情さなどあろう筈がないのである。
 ある意味で、こうした今日の社会現象が、骨盤付近にいる「眠れる蛇」を覚醒させ、次から次へと精神病者を作り出しているのかも知れない。

 だからこそ現代は、再び純情に還
(かえ)る、感情の純粋さが必要なのではあるまいか。
 初恋の素晴らしい青春の輝きは、老若男女を問わず、その心の中に仕舞われている。しかし、青春の光と影は、もはや表面化する事はない。
 『理趣経』は「愛欲は清らかなものである」と説いている。
 即ち、清らかであるからこそ、人間の愛欲は、恥じらいを忘れた恋など、動物のそれであって、人間のものではないと断言しているのである。

 恥じらいを忘れた恋は、動物の情動である。動物の発情である。
 これは、決して胸をときめかすものではない。頬
(ほほ)を赧(あか)らめ、咽喉(のど)が渇き、そんな物言わぬ純情な乙女心は、既に現代社会からは消えてしまった観が強い。処女喪失時代である。アメリカの恋愛術にまんまと騙されたのである。
 かつて、乙女の夢と言うのは、処女の儘、輿
(こし)入れをし、伴侶(はんりょ)となる良人(おっと)と、生涯寄り添い、良人と契り合う事ではなかったか。

 江戸時代の近松門左衛門の浄瑠璃
(じょうるり)の「道行」に出て来るような、恋の情緒の初々(ういうい)しさと、恥じらいこそが、いっそう男女の心の暖かさを感得したのではなかったか。
 だから『理趣経」では、「愛欲は清らかだ」と言って憚
(はばか)らないのである。
 そして、そこには心の通った暖かさと、優しさと、ものの哀れと、雅びやかさがあった。
 初恋に初心
(うぶ)な心緒(しんちょ)を欠くならば、それは恋ではない。獣愛(けだものあい)である。また、『理趣経』で説く愛欲の衝動でもない。

 故意には情緒が伴うものである。情けから起る輝きがある。
 しかし今日の現代人は、恋した時、かかる体表現が見られる場合は殆ど無くなってしまった。もし現代人にも、こうした心が残っているとすれば、それは稀有とされるほんのひと握りの人に限られるだろう。

 だが、覚えておく事だ。純真な感情日は、恋した時に起るものである。この時に始めて体表現が見られ、愛情の表出が行われるのである。何も、肉体を貫通する迄のことはない。
 現代では、そんな恋人達は、大海原の海中で針を探すより難しくなった。
 現代という時代は、結婚適齢期の女性を見た場合、一万人に一人の確率でも、正真正銘の処女は見つける事が難しい。また、男共は、それに輪を掛けて、性欲異常であり、愚かしいアメリカのれない術を何処までも信奉している。同時に、初恋の初々しさも、肉体だけではなく、心までも完全に意喪失している。

 現代という時代は、人間性の持つ心情の喪失した時代であり、愛の不毛の時代である。愛擬きの似非愛は存在するが、それは獣愛に過ぎない。ここに現代人の不幸現象が横たわっている。現代人こそ不幸の中に生きているのであるから、更に『理趣経』を探究し、そこに「本当の清らかな愛欲とは何か」ということを探究しなければならないのである。

 つまり、「愛欲の何たるかを知らない」という事は、現代人の多くは、老若男女を問わず、男根ならびに女根に生命力の源があり、この発信源に守護霊が鎮座して、これを自覚する事が幸福の近道であると教えているにもかかわらず、それを外に求めたり、背後霊などに守護霊を求め、自分自身の肝心な肉体の守護霊を見落としているのである。

 まず、霊能者以外に分りにくい目に見えない守護霊を追い求めるのではなく、目近に眼に見る事が出来、はっきりとした物質的根拠である、自らの男女の性器を礼拝すべきである。そして、ここに生命力を宿らせなければならないのである。

 特に女性は、生命力を宿ることの自覚が必要であり、その自覚から隠行法が始まるのである。
 さて、女根に生命力が宿った事を知覚したら、両手で股間を摩り、左手を女握りにして「火水之印」を作る。その上に左掌を載せ、隠形印としてこれを胸部に置く。そして「おうまく・さんまんた・らが・きゃん・あん・そわか」を三回唱える。
 これを実践する事で、不感症や淫夢などに冒される事はない。

 この時、両脚を伸ばし、女根の門をピッタリと閉じ、魔性や外邪が潜り込むのを遮断しなければならない。
 現代では殆ど居なくなったが、この場合に肉体的に侵入するのは「夜這い男」である。
 「夜這い男」は、夜這いをかける際、愛染明王隠行法を逆利用して不届きな侵入を図る。そしてまんまと物にし、思いを遂げる。
 こうした男から女性が孕
(はら)まされた場合、極悪な人間を世に誕生させる事になる。
 かつて「夜這いが横行していた地域」には、時として凶悪な精神異常者がでる。それは、女性側が隠行法を知らなかったからだ。またこう言う地域は、かつて貧しさ故に兄弟姉妹、更には親子で目合
(まぐわ)ったという悲しい歴史を抱えている。貧しさ故の近親相姦を言う。
 こうした関係で身籠り、そこから生まれた子供の多くは、火病
(かびょう)を抱えたと言う。火病は霊的血病である。
 また、「大凶時」という午後四時前後に交わって身籠った場合も霊障などの霊的障害を受ける子供が多いと言われる。

 しかし、もし女性側が愛染明王隠行法を知っていたら、夜這いを掛けた男は、世にも不運な人生を辿る事になる。聖なる女根から閉め出しを喰った魔性は、外邪
(生前の淫獣欲の思いが断ち切れない不成仏霊)共々に撃退されるからだ。撃退される、こうしたことを総じて「魔性」と呼ぶのである。
 魔性の群が侵入した時、男根に喰い付き、陰茎はへし折れ、陰嚢は破裂すると言われている。


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