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理趣経的密教房中術・プロローグ
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夜の宗教・真言立川流
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理趣経的密教房中術 4



女根秘法。女根(にょこん)の象徴は愛染明王である。
 では、何ゆえ女根が愛染明王なのか。それは、女性の肉体は男性よりも、難解かつ複雑な面を持っているからだ。この難解複雑な一面は、先祖からの遺伝でもあろうが、幼児の時に、両親の性交を盗み見た、そのよがり声を聞いた、男からこの時期に悪戯をされた、猥褻な写真や、ポルノビデオを見たなどの原因が、そもそも女性の性器を形作ったと謂
(い)われる。

 女性器の形成をなすものは、単に年頃になったから色気づいた、ボーイフレンドが出来たから自然開花したなどという、植物的な現象とは無関係である。極めて動物的で、肉食獣的な因縁を抱えている。そしてまたこれが、複雑な肉欲や愛欲を尽くし出すのである。

 だが、女性の大敵は「不感症」である。発情し、遣
(や)りたい時が最高に望ましいはずなのに、女性の肉体には、屡々(しばしば)ズレが起る。性欲と快感のズレだ。
 こうした複雑かつ難解な心理で行動し、然
(しか)も大敵を抱えている女性の姿は、隨(したが)って、まさに愛染明王なのだ。

 愛染明王の尊像は、男性を形作る不動明王より複雑難解と言えよう。
 何故ならば、眼は三つあり、手は六本。その手には各々に、鈴、五鈷杵
(ごこ‐しょう)、弓、矢、蓮を持ち、六本目の手には拳が握られている。そして月輪中の蓮の台座に坐している。また、尊像が宝瓶(ほう‐びょう)の上に乗り、これは密教で、灌頂(かんじょう)の誓水を入れる器とされている。

 密教房中術では、宝瓶は貴重な水を入れる器なのであるが、これは男性の精液を入れる膣の意味を持ち、また胎児を入れる羊水の場所でもあり、合わせて子宮も意味するのである。
 それだけに、男と異なり、非常にデリケートであると言えよう。しかし、男が無知な場合、この繊細な生き物に対し、乱暴に扱い、不感症を背負い込ませてしまうのである。男こそ、女性のこうした側面を充分に知る必要があり、その貴さを理解しなければならない。

 男は、生殖の為に天から授かった精子を送り込む、ただそれだけの存在だが、女はその精子を育てる大地なのである。まさに女体こそ、人類が棲んでいる地球そのものであり、粗雑に扱ったり、乱暴狼藉は働いてはならぬのである。

 また、三つの眼は、月経、妊娠、出産の、女性特有の働きを示したものだ。頭髪にある獅子の冠は、強い愛欲の表現と、権威を顕わしているのである。女性の姿形は、手弱かな女型
(にょけい)を形作っているが、その正体は愛染明王であり、セックスの固まりと言えよう。


●荼吉尼の秘術

 一説には荼枳尼天(だきに‐てん)は、「文殊菩薩(もんじゅ‐ぼさつ)」の化身(けしん)であると謂(い)われている。この菩薩は仏の智慧を象徴する般若(はんにゃ)であり、諸菩薩の上首とされ、普賢ふげん菩薩と共に釈迦如来の脇侍で、獅子に乗って仏の左側に侍す。般若経で説かれる菩薩である。

 荼吉尼は、もともとインドの魔女を指す。荼吉尼を祈る修法者は、神通力を授かると謂れ、荼吉尼自身が文殊の化身
(けしん)であり、また竜女りゅうじょ/竜宮にいるという仙女のことで、特に、八歳で成仏したという沙竭羅(しやから)竜王の娘である。梁塵秘抄(りょうじん‐ひしょう)には「蓮花し濁りに開くれば、竜女も仏に成りにけり」とある。後白河法皇編著の『梁塵秘抄』は全10巻であり、それに続くものとして「梁塵秘抄口伝集」なるものが全10巻とされる)と同体であったとされる。
 伝説によれば、竜女は八歳にして正覚
(さとり)を得て、荼吉尼自体の本尊が、八歳より霊力を得たと信じられている。

 魔神の正体は、修法者自身のエネルギーであり、魔神崇拝は、自分で自分の体力や気力を強める事から、それに照応した尊像も、忿怒
(ふんぬ)の表情を持っているのである。
 一方、菩薩信仰は、魔神的能力の最も優れた効果を願う為、「情」の表現として、尊像に、忿怒の他に、慈悲の表情も漂わせているのである。
 つまり、魔神の力を求めつつ、一方に於いて、慈悲と平和を願い、こうした柔和な表情も、人間への済度
(さいど)として必要であると考えたのである。
 また人間の内部には強力な魂が宿り、同時に慈悲の心がなければ、何事も成功しないと謂うわけである。
 つまり「如来
(にょらい)」とは、力と情の両方を持ち、その総合した表現型であり、これこそが「生命体」の表現の最重要課題であったのである。此処に顕われる表現型の重要とされるべきものは、即身成仏の理(ことわり)となるので、魔女であった荼吉尼修法も、単なる迷信と言えないのである。これこそが、自己の精力強化を目指す、自己鍛練法であったのである。



●九竅

 人間の臭いに三つある。先ず体臭である。
 体臭の出所は『九竅
(きゅうきょう)』であり、臭液が出る九つの穴のことだ。
 人間や哺乳動物の身体には、九つの穴がある。則
(すなわ)ち、両眼・両耳・両鼻孔・口を陽竅といい、後陰・前陰を陰竅とよび、これを総称して九竅という。これが体臭という匂い。皮膚の汗腺と皮脂腺の分泌物から生じる一種の臭気孔だ。但し、女の場合は「十竅」である

 次に心の匂い。則ち、これを心臭という。
 心には様々な匂いがある。喜怒哀楽から起こる臭いだ。
 喜ぶときの匂いを喜臭
(きにしゅう)、怒るときの匂いを怒臭(どしゅう)、哀しいときの匂いを哀臭(あいしゅう)、楽しいときの匂いを楽臭(らくしゅう)という。総称して心臭という。そして心の臭いには、人生の苦に纏(まつわ)る苦臭がある。その苦臭の中に迷臭と悩臭がある。慎みを忘れれば妄臭となる。総てそれぞれに特有の臭いがある。その臭いが、その人の現状を顕している。苦・悩・迷・妄が心の佇まいの臭いである。

 更に霊臭というものがある。
 霊魂から漏洩する匂いである。これらを総合して、人間には三つの臭いがある。
 特に気をつけねばならぬ臭いは、最後の霊臭。霊臭を放置しては運が去る。そもそも運は、臭いところから去る性質がある。運は臭いを嫌うのだ。
 では、その虚とはなにか。
 運はその人の臭いの虚を衝いて診断をする法則で動いている。
 つまりである。
 人生を横着に生きている輩
(やから)を徹底的に嫌うことだ。人間の横着はどう言う側面に転がっているか。
 端的には九竅の不手入れによる。これらの孔
(あな)を清潔にしない。汚れたまま放置する。不浄にする。これが穢(けが)れである。それは自分への甘えの妥協からおこる。甘えの構造は、人間を顛落させる構造を持っている。甘えは浸れば腐る。馴染めば溺れる。頼れば去る。それは非を衝かれる元兇となる。

 では、非とはなにか。
 道理に合わない性質による。道に背く。背けば無恥だ。則ち、恥じらいを失えば弛
(ゆる)む。学ぶことを怠れば飽きる。飽きれば奢る。奢れば譲り、かつ遠慮を忘れる。忘れれば祝福を失う。また押しが強ければ、やがて巡って、同じ量だけ報いを受ける。祝福は遠ざかる。総て人間の臭いから出たもの。
 人生は、また如何にして、己が臭いを無臭に近付けるかが課題である。臭いは不浄だ。それを知って、臭気を極力排除し、香水に頼らぬ無臭への努力を怠るな。運気向上は、如何に臭いを消すか、それに懸かる。その探求を怠るな。
 人間は食の塊である。その人が何を食べているかで臭いも変化する。同時に種類で重量が異なってくる。肉や乳製品の動タンパク中心だと、糞は重くなって水に沈む。玄米を中心にした穀物菜食をしていれば、糞は水に浮ぶ。軽重で、運が左右する。
 毎日正しい排便をして、常に、糞で運気を確認せよと房中術行法は教える。



●性器に隠された原理

 男女の性器には各々に隠された原理を持っている。女神が神なら、男神もまた神なのである。神ならば、当然その拝み方がなくてはならない。この拝み方を顕わしたものが『日月礼念秘法
(ひつき‐らいねんひ‐ほう)』である。
 日とは、陽であり男性器を指す。また月は陰であり、女性器を指す。
 次に、「礼念
(らいねん)」とは、一切の雑念を取り払い、一心に敬愛し、慎んで拝むことである。
 この世の男と女が、それぞれの特徴である陰陽を遣う。性器を遣って互いに入り込み、陰陽の気を一時的に交換し、かつ溶け合うのである。

 世に出回っている隠形などの書籍は、その表皮だけしか謳わず、深層部を隠したまま世に公開されている。
 したがって真言密教行者には欠かせぬ、本当の護身法が抜け落ちている。この護身法とは、術をもって「呪」に変え、呪をもって我が身を護る方法である。その秘法を極める為には、自らの性器も魔性から御守り頂かねばならない。神聖なる性器を、女が男根を護り、男が女根を護るのである。これを真の護身法と謂う。この護身法の初歩は、男女各々が双方の性器を礼拝する事である。これこそが、礼拝する即身成仏の修法なのである。

 さて、密教には「五大尊」が存在する。そして更には、『五大尊一壇法』というものがある。
 この一壇法は、不動明王
(ふどう‐みょうおう)、降三世明王(ごうさんぜ‐みょうおう)、軍荼利明王(ぐんだり‐みょうおう)、大威徳明王(だいいとく‐みょうおう)、金剛夜叉(こんごう‐やしゃ)の仏像を同一の壇上に祀り、修法する法であり、これに礼念の意を込めるのである。

不動明王
(ふどう‐みょうおう)
大日如来の使者として登場し、やがて大日如来が教化し難い衆生を救うために忿怒ふんぬの姿を仮に現したものとする。
 精神の乱れをなくし、不変の性愛の象徴。矜羯羅
(こんがら)・制タ迦(せいたか)の二童子を従えるこれは、つまり二つの睾丸を顕わす。
降三世明王
(ごうさんぜ‐みょうおう)
阿シュク(あしゆく)如来の所変で東方を守るとされる。
 三世界の主を、あるいは三世を三毒と解釈して、これを降伏
(ごうぶく)するから降三世という。多くは三面八臂・四面八臂で忿怒の相を表し、大自在天(だいじざい‐てん)と烏摩妃(うまき)を足下に踏む。
 宿命的な悪業、遺伝体質的な障害などが、子孫にまで及ぶ悪疾を取り除く役目を持つ。
軍荼利明王
(ぐんだり‐みょうおう)
宝生如来の所変で南方を守り、煩悩や種々の障碍(しょうがい)を取り除くといわれる。多く一面三目八臂(はつぴ)で、忿怒の相をなし、蛇が身体にからみつく。軍荼利夜叉(ぐんだり‐やしゃ)とも。クンダリーニともいい、火竜を顕わし、性力絶臨を指す。
大威徳明王
(だいいとく‐みょうおう)
文殊菩薩の所変で、西方を守り、衆生を害する一切の毒蛇悪竜を摧伏(さいふく)するという。その像は六面六臂六足で忿怒の相を表し、剣・戟(ほこ)などの武器を持ち、水牛にのる。怨敵調伏・戦勝祈願の修法の本尊として尊信される。ヒンズー教のシヴァ神であり、男根の陽の力を顕わす。
金剛夜叉
(こんごう‐やしゃ)
不空成就如来の所変で北方を守り、悪魔を降伏するという。普通、三面六臂(ろっぴ)で、忿怒相に表される。北方を護る神であり、女根の陰の力を指す。

 以上の五大尊を五大原理に当てはめれば、金剛夜叉が「地」、大威徳明王が「水」、軍荼利明王が「火」、降三世明王が「風」、不動明王が「空」となり、人間の一つの性器にも、五大の原理が働いているのである。

 男根では性器そのものが「地」であり、睾丸で作られる精液が「水」、激しい勃起が「火」、性交運動が「風」、射精が「空」となる。
 また、女根では性器そのものが「地」、膣内の潤いと月経が「水」、男根を迎え入れる膣が「火」、性交運動とそれに伴う膣内の蠕動
(ぜんどう)運動が「風」、子宮が「空」となる。これは“蟲(むし)”が這い回ることを言う。喜びを表し、「歓喜(がんぎ)」を意味する。
 女根がこの状態に至るのは、世間流に言うならば「あげまん」であり、財宝が殖えることを意味するが、他にも子宝や安産に恵まれるという暗示であり、「男女双身図」の人体型とも言われている。男女二根交会による余慶
(よけい)の暗示である。

 こうした正規にもいろいろな形があり、人各々に異なっている。その異なりを顕わすものが、『日月尊像図印集』に記されている。
 これにより男根を区別して行くと次のようになる。

金剛夜叉
(こんごう‐やしゃ)
俗に言う「かわかむり」のことで、包茎を謂う。
 男としては陽力不足であり、こうした性格の男は、陰の気が混じり、交会をしてもその味が薄いとしている。
 古来より「スボケマラ」と蔑称され、「下品
(げぼん)」にランクされ、特に割礼を受けいない欧米人に覆いと謂われる。こうした形の男根は、包茎手術を受けるなり、あるいは五大尊に祈り、陽気を貯えて陽の力を強力化すべし。
大威徳明王
(だいいとく‐みょうおう)
俗に言う「胴返し」という逸物で、長さは約15cm以上。
 太さも、それに釣り合ってよく肥え、陽の力を顕わすシヴァ神の尊像であとされるが、この男根は、女性に裂傷を負わせる危険性があり、隠形法を学び、この修法に徹して性器の修養に勤めるべしとある。
 古伝には、勃起した雁
かり/貴頭部の大きさ)・四寸五分(約13.7cm)。雁ぎわ(貴頭茎部の太さ)・四寸三分(約13cm)。中・四寸一分(約12.2cm)。根元・四寸一分(約12.2cm)。長さ・約六寸(約18.3cm)と記されている。
【註】アメリカのポルノスター、ヘンリー・ムースは男根の全長が30cm以上もある持ち主であり、まさに馬並みと言えよう。また興味深いのは、男根サイズと人種によって比例している事である。これこそ、天の配剤か)
軍荼利明王
(ぐんだり‐みょうおう)
男根が下に曲がっているのに長く、入れると子宮をついて痛がらせると謂われるものである。
 このタイプも欧米人に多く、日本では古来より包茎と同じように「下品
(げぼん)」にランクされた。このタイプの男根を持つ男は、性交そのものより、強い性力情念を前戯に発揮する事で、女性を満足させる信念の持ち主である。
 したがって交会の時間は短く、女性を髪の毛の先まで痺
(しび)れさせることができず、男自身も早漏が多い。五大尊に祈り、朝晩修行して、陽の気の制御を図るべし。
降三世明王
(ごうさんぜ‐みょうおう)
この方は「中品(ちゅうぼん)」と謂われるタイプのもので、平均的な長さである。女性に対しては安心感を与え、男女共に性感を楽しめるものである。
 修法により、長時間の交会も可能であるから、ヒステリー女性に対しても、快い性感を与え、これによりヒステリーは治まるとされている。
 古伝には、勃起した雁
(かり)・四寸(約12.2cm)。雁ぎわ・三寸九分(約11.7cm)。根元・三寸八分(約11.5cm)。長さ・約四寸(約12cm)と記されている。
不動明王
(ふどう‐みょうおう)
五大明王の中で、明王中の明王である。大日如来の身代わりとされ、俗に言う「上品(じょうぼん)」と称されるタイプの男根である。祈祷の張りも力強く、男根中の男根であり、王者の風格あり。最も女性が群がるとされる。
 この激賛される男根は、古伝によれば、勃起した雁
(かり)・四寸(約12.2cm)。雁ぎわ・四寸八分(約14.5cm)。雁ぎわ・四寸七分(約14cm)。根元・三寸八分(約12cm)。長さ・約四寸九分(約15cm)と記されている。

 男根と謂
(い)うのは、尊像として、単に仏壇に飾り、拝めばよいと言うものではない。生命的な日常の日用品なのである。これを縦横に使いきってこそ、はじめてその価値が発揮されるのである。
 密教房中術では、「自己の性器」こそ、何よりも勝る守護神であると説く。よく、多くの人は、その守護神を求めて外に神の形体を求めるが、人間が誰でも、自分自身の裡側に守護神を持っているのである。この守護神こそ固く信仰し、日々の修行を絶やさない事である。黒光りするように鍛え上げ、その光こそ、女性をして礼拝せしめるのである。

 次に『日月尊像図印集』には、女根を挙げ、様々な女根形の尊像は『仏母大孔雀明王経
(ぶつも‐だいくじゃく‐みょうおう‐きょう)』にある天母の名が挙げられている。

大黒天母
(だいこく‐てん‐ぼ)
地の女神とされ、二黒坤宮じこく‐こんぐう/皇后宮)の星を司る。地底の閻魔天の妃であり、「暗黒后(あんこく‐ごう)」と同一視され、地天を顕わす。
 俗に言う「きんちゃく」や「タコツボ」がこれである。膣内の挿入された男根をしっかりと銜
(くわ)え込み、その種を悉(ことごと)く絞り込む名器とされている。これこそ地の女神の名に相応しく、この女根の女性は、おちょぼ口で乾いていると謂われる。
水天母
(すい‐てん‐ぼ)
水の女神であり、西方の先宮の守護神、龍宮王(りゅうぐう‐おう)の妃である。俗に言う「汁たくさん」と称される女根で、内部は広いが、入口が狭い。
 このタイプの女根は、感応を始めると、みるみるうちに熱い愛液を湧き上がらせる。この愛液が溢れる前兆は、腰を激しくうねらせる事になる。
 また、男根を幻夢の世界にまで飛ばす名人であり、この女門の持ち主の女性は、普段は悲し気に眼が潤んでいる。
火天母
(か‐てん‐ぼ)
火天の女神である。南方の九紫離宮(きゅうし‐りきゅう)の密教守護神の妃である。俗に「毛まんじゅう」ともいわれ、賞味される事が多い。
 楊貴妃
(ようきひ)などは、これに入り、「引けば二尺に及び、放せば宝珠の玉のように縮む」と伝えられれている。
 明王忿怒
(ふんぬ)像の背中にある火炎の如く、燃え上がる形の陰毛は、性力の強さを顕わしている。男根を圧倒する性力を有しているのである。「性命エネルギー」が旺盛である。身体的な特徴には、もみあげや、えり足の長い女性がこのタイプの女性を謂われている。
風天母
(ふう‐てん‐ぼ)
風天の女神であり、この女根の持ち主は「飛龍」と呼ばれている。風天とは、福徳、子宝、長寿の守り神とされ、坤兌離等の方位を離れ、上空を自在に飛行する風の位とされる。その異名をもって「飛龍」の名がついた。
 飛龍女根の持ち主は、裸像を見ると一見清らかで、大陰唇は左右に盛り上がり、陰毛は美しく、まるで鳥が羽根を広げたような形で、今にでも飛び立ちそうな形を有している。陰毛の質もよく、それが美しいことに最大の特長がある。
 また、このタイプの女根は膣口が小さく、可愛らしさが漂い、内道も狭くて、よく締まっている。しかし、本当の良さは、こうした外見ではない。このタイプの女根は、男根が入って、それに応呼する共感が始まると、忽ち膣の壁が羽ばたくごとくに動き出し、男の魂までも天に上り詰めらせるものである。
 「龍」とは、男根の事であり、それを飛ばし、至らしめるから「飛龍
(ひりゅう)」と言うのである。
 この女根の持ち主は、笑顔を作ると、頬
(ほほ)にエクボができる女性が多いと言われている。
梵天母
(ぼん‐てん‐ぼ)
梵天であり、万有の原理ブラフマン(梵)を神格化したものを言う。色界の初禅天の主として、帝釈天と並んで諸天の最高位を占め、仏法の守護神とされる。
 密教では十二天の一つとして上方を守る神である。淫欲を解脱し、清浄界に至った聖仏とされた「空天」でもある。この女根を持つ女性は非常に珍しく、中国では古来より「龍珠
(りゅうじゅ)」と呼んで最高の女根の女帝とした。
 しかし、数十年に一人生まれるか否かの存在であり、外見の美しさは飛龍を上回り、然も非常にいい匂いを漂わせ、輝くばかりであったと伝えられている。
 今世紀には、この女根の持ち主は非常に少ないと言われている。

蓮の花に似た最高の女体が梵天母である。

 さて、この女根の持ち主を古伝により紐解けば、内部は、膣口が狭く、奥行きも細長く、男根が訪問して来ると奥まで迎え入れ、突然子宮の珠が膨れて男根の龍頭を歓迎すると言う。そしてこれに喜んだ龍頭の口は、その珠と接吻し、一度この接吻が起れば、ぐるぐると動き始め、その絶妙な躍動に、どんな男根でも快声を上げられずにいられないと言う。
 女根の所有する秘密の珠は、龍の頭を巡って転がり始め、同時の女性のよがり声も、珠が転がるように美しいと言う。
 そしてこのタイプの女人と接すると、運が開け、まさに「あげまん」ということになるであろう。
 更にこの持ち主は、膣内の括約筋
(かつやくきん)が非常によく発達していて、膣内のゴムのような働きは最高の物であるとされる。女性の膣は、拳骨が入る程広い奥行きを持っている。それをカバーするのが括約筋である。この括約筋は、入口から2、3cmの処にあって、更には奥へは行ったところにもう一つある。そして入口の処のものを医学上は括約筋と呼んでいる。また、女性の場合、この括約筋が重要になって来る。

 勘が鈍く、ぼーとした女は括約筋の働きが悪いと言われている。したがって、古来より女を見る場合は、足頸
(あしくび)の締まりとか、耳朶(みみたぶ)の良い女とか、唇(くちびる)の形が人相上、云々と言われて来たのである。
 そして梵天母を最高の女性としているのは、このタイプの持ち主は、非常に勘がよい事である。先見の明は、そのまま括約筋の発達に繋がっているのである。女性の中の女性であり、まさに名器と言えるであろう。


【註】よがり声について
 よがり声を「春声」「浪声」「嬌声」などと言う。特に男よりも女人の方が、感情表現が豊かであり、敏感で、かつ情緒深い為であろう。その美快は男よりも数倍上で、性快感が絶頂感に達しようとする瞬間のよがり声は、百人百様である。
 性的欲求が強く、好色な女人ほど、絶頂感に達する時は「浪声」となり、男女の差において、女人の場合は放出的な感覚であり、男の放出感とは異なる。そして、男の場合の放出感は疲労感を伴うものであるが、女人の場合は疲労感がない。むしろ爽快であり、肉体的な軽快さを感じとると言うのが、女の正体である。
 また、女人の絶頂感は感情表現と連鎖して居り、性的興奮の最高潮の時の美快は男のそれと異なる。

 普段は慎ましく、ひとやかな女人であっても、ひとたび性感覚が開発されれば、理性など消し飛んでしまい、淑女の中には「殺して……」とか「死ぬ、死ぬ……」とかを口走り、乱れ狂う女人がいる。普通、女人は一見受身のように思われるが、決して受身などではない。この辺を見逃すと取り返しのつかないことになるのである。男から性快楽を貪り喰い、それを総べて飲み干す貪欲さを持っている。その体表現が「よがり声」なのだ。

 人間の持つ愛欲には、先天的に強弱があるが、人間の性的欲望や快楽性は、決して肉体だけに宿った次元から発するものではない。
 ここには大いなる精神性があり、特に女人の場合は、悦楽に耽溺
(たんでき)し、惑乱する霊肉の両方を等しく揃えているのである。同時に肉体の乱舞は、愛の表現の鳴響(めいきょう)であり、人各々にその強弱の差はあるが、もし女人が「よがり声」を発しなかったら、これは明らかに異常である。
 その場合は、性感度が鈍いか、精神的なストレスや神経症が始まっているか、あるいは精神分裂病であるかなどの疑いが掛かってくる。またそれ以外の病疾を感知しなければならない。心身ともに健康であれば、必ず「よがり声」が起る。
 そして、その「よがり声」の良し悪しは、自然発生的な快感であると共に、美快が齎さなければならない。
 密教房中術では、「珠の転がるような声」を最高とする。この声の持ち主が、「梵天母」なのだ。男に取っては夫婦になることで幸運を得るとされる。

 男根ならびに女根の各々については、性器を五大成仏に喩
(たと)えて説明したが、縁あって巡り遭(あ)った男女は、自分が「どの尊像なのか」を知り、自分の守護神として礼讃する必要があるのである。女性器は貴く、生命の根元は此処から始まったといえよう。礼拝の対象に値する。
 自分の守り神である守護神は、自分の裡側
(うちがわ)に既に備わっており、これをわが本尊として信仰し、礼拝しなければならない。つまり男女の愛情でも、これは一種の信仰であり、礼拝する事で、互いの愛情は深まって行くものなのである。



●理趣経的・還精法

 『理趣経』には「如来はまた一切同等かつ平等を観ずるところの自在する智印を出生する般若理趣を説き給う」と記されている。
 真理を教える般若理趣は、一切の衆生は平等なる事を教えるが、また、「金剛平等に入るは即ち、一切如来の法輪に入るなり。義平等に入るは、即大菩薩輪に入るなり。一切平等に入るは、即ち妙法輪に入るなり。一切平等に入るは、即ち一切事業輪に入るなり」と説く。
 『理趣経』といわれる教典は、正しくは『大楽金剛不空真実三摩耶経(たいらく‐こんごう‐ふこうしんじつ‐さんまや‐けょう)【註】真言宗の伝統的な読み方による)という。
 この教典は、7〜8世紀頃、インドで成立したものと考えられている。インド仏教史や密教史の中で『理趣経』を眺めると、そこには紀元前4世紀頃までに成立した仏教は、その後、最高の発展形態として密教を生み出した事が分かる。そして『理趣経』こそ、仏教思想が最高に発展した形の、最終的な思想で発展したいう事が言えるであろう。

 だからこそ、『理趣経』で説かれている事は、性や現象人間界での対処の仕方などであり、千年以上経った今日の現代人が見ても驚くほどの新鮮さを保っているのである。この教典は、わが国では真言密教行者によって密かに伝えられて来たが、この教典に書かれたことは、詳しく説法する事が厳しく禁じられていた。
 それは性欲を始めとする欲望についての考え方がリアルであり、ややともすれば誤解を招くと恐れられたからだ。これを広める事は、反社会的な行為と思われていたのである。

 江戸時代に入ると、以上のべた理由からも、更に厳しく禁止され、大衆的にはこの教典が流布される事はなかった。
 真言宗の立場から述べると、伝統的な教学から言えば、『理趣経』を読む者は、まず密教の先生である阿闍梨
(あじゃり)の弟子となり、一定期間厳しい修行をしなければ許されなかった。弟子の修行期間において、阿闍梨は弟子がこの教典を読むに相応しいか否かを試すのである。つまり『理趣経』には、真理性を持つと同時に、危険性をも兼ね備えていたのである。
 そして阿闍梨の弟子になり、この教典を読む事が許されると、まず沐浴斎戒
(もくよく‐さいかい)して身を浄(きよ)め、曜宿(ようしゅく)の法に遵(したが)って、一番良い日を選び、師に遵い、読み覚えよとあり、この教典から「人生を学びとれ」とされたのである。

 大楽金剛とは、『理趣経』と主題となる“ぼさつ”
【註】菩薩/Bodhisattvaの「金剛さった」である。
 “金剛さった”という菩薩を通して、偽りのない、実りのある教典が『理趣経』なのである。その教典の書かれている内容は、男女の欲望をあるが儘に視
(み)て、その事実的根拠は、「大楽」という男女の欲望を実現し、体現して、その中の人となると言うことである。
 それを実現し、体現する為には「般若波羅密多
(はんにゃ‐はらみた)」という智慧あふれる行動が要求されるし、理趣と言う「事のわけ」あるいは「物の道理」を般若理趣の自性清浄なることに沿い、これを実践していかなければならぬという、実現の必要に迫られた者である。

 『理趣経』と説くところは、大日如来が“金剛さった”のために「般若理趣」の自性清浄であり、これは物の本性は、もともと総
(すべ)ての穢(けが)れを離れた清らかなものであるということを説いたものであり、特に人間の心の本性に関して、この教えを説いている。つまり、人間と言う現象人間界に生きる人間の姿は、欲・触・愛・慢という言葉が象徴するように、これを除いて人間生活はあり得ないとする事である。これを素直に受け入れ、人として、光り輝く人間的な生き方をしてみようとするのが『理趣経』の教えであり、これを理解し、体現すると言うのがこの教典の特長である。
 そして、『理趣経』の「十七清浄句」教えを要約するならば、次のようになる。

第1句 スラータ(妙適/びょうてきという、男女交合の喜びは非常に清らかなものである。愛は穢れなき、純粋なもので、清らかなものである。
第2句 愛楽はすすんで体現するものである。卑しい穢らしいものと思ってはならない。そう思う時点で自らが汚い。
第3句 欲望は生きる欲求である。自らを肯定するために齎された仏の恵みである。それだけに用い方には注意を払い、自分を磨き上げて最高の欲望で、それを整え、接せよ。乱してはならない。
第4句 欲望は、もとから清らかなものである。五官はそのためにある。五官を整えよ。
第5句 眼を開けて見れば、宝物で無いものは一つもない。この世のものは総て宝である。霊肉問わず、宝と意識せよ。
第6句 欲望を充たすと言う事は、人間として堅固な行いである。そのために深く思索を廻らせ。
第7句 宇宙に存在するものは、総て人間が批判するものを超えている。あるから存在する。それは唯我も同様である。
第8句 自然界において、山も河も海も、平等な世界の顕われである。【註】しかし、人間の肉の眼から視た平等は存在しない。人間が人間を視て、平等と言うべからず。人間が総べて同格であり、同等である。平等と言う言葉に相応しいものは、自然界のその佇(たたずま)いである)
第9句 財を捧げて、世を飾り立てよう。霊肉問わず、持てる物を捧げよ。
第10句 高慢は思いきり嗜(たしな)めよう。横柄な言い方や傲慢になったり、人を見下したりするのは止めよう。節度を保ち、乱暴にならないようにしよう。言い過ぎたり他人への蔑視は禁物。
第11句 以上述べたものは、元から平等であり、人間の場合はその格において、同格であり同等である。これを「一切平等」という。
第12句 あらゆるものは、平等に生きるようにコントロールされている。人間も自然界の生き物であるから、自然に摂理には従わねばならぬ。【註】自然界理論)
第13句 この言に関して、七人の天女は、進んで自分の気持ちを話だした。興味を惹いて縋(すが)り寄って来た。
第14句 三人の兄弟も、この話に感心して、自分の心の裡側(うちがわ)を話だした。内観にそれを想像した。自分の内面はどうか、心構えはどうか。
第15句 四人の姉妹も、この話に感じ入って、心の裡側を話だした。そして生に利があるなら、この世において試さずにはおれない。
第16句 全ての物は、ありの儘(まま)に真実である。人為を交えてはならない。人工に造ってはならない。そのまままでいい。
第17句 どうしたら欲望の世界を現象人間界において「真実」にすることができるか。その具現を考えてみる。しかし生を害するものは感覚的な本能の欲望であっても制御し、節制しなければならない。この慎みがあってこそと生を安全に保て性命(せいめい)を為(な)す。

 『理趣経』は真言密教の曼荼羅
(まんだら)を表現して、現象人間界の言葉を使い、以上を絶唱している。この経典をよく検(み)れば、生きている肉体を論(あげつら)っているのだから、唯心論ではなく、唯物論で展開されていることが分ろう。
 何故なら、生より貴いものはなく、感覚から起こった欲望こそ貴いとしているからである。

 そもそも『理趣経』によれば、五官のことを高らかに奨励し、賛美して、耳はいい善
(よ)がり聲(こえ)を欲し、眼は美しい美体を欲し、花は芬(かぐわ)しい馨(かお)りを欲し、口は甘(あま)いものを欲し、肌は柔らかい木目の細かいものを欲している。だが、どの欲望を過度の満足しようとすれば生を損ない、最後は早老で死ぬことになる。したがって間違わぬように、戒めが「髑髏(どくろ)」を用いて警告を与えているのである。毒とが生を早期に失う早老への重要な警戒を要することをシンボル化したものである。また、真言立川流では、これがそのまま本尊となった。
 深い慎みを求めているのである。慎まないと肉体は早期・早老で滅んでしまうからである。
 肉体を失った生などあろう筈がない。
 そして理趣経を繰り返し読むと、人間は自然の喜びに心の安らぎを求め、その安らかな境地に遊び、大楽という
“金剛さった”のような、堅固な境地に至るであろう絆(きづな)を結んである。そして『理趣経』は、スラータ(妙適/びょうてきという、男女交合の喜びから始まるのである。


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